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『ニュー・アトランティス』

太平洋横断の航海。難破してしまう船。奇しくも辿り着いてしまった未知の島。これは冒険書か?いや違う。科学の道筋を示した本だ。

フランシスベーコンが科学における実験の仕方を示したことを知っている人は多いかと思う。科学哲学に大きな影響を与えた彼が考えた、理想的な科学研究所を、孤島「ベンサレムの国」の中に描いたのがこの本である。

本書は途中までは単なるフィクションの冒険書かのように見えるが、この雰囲気は、難破した島にある科学施設「サロモンの家」の説明に入ると一転し、淡々とした文体へと変わる。

サロモンの家ではさまざまな研究、実験がなされる。
例えば、動植物の収集や、薬の調合、光学や音響、動力などの研究だ。説明の最後には、サロモンの家の話を他の国々に公表することを許す、とあり、こうして物語は締めくくられる。
現実世界と最後に再びリンクするストーリーが臨場感を生んでいる。

当時ベーコンにより考えられた科学の理想と、現代の科学との相違点を知ることができる点で、本書は興味深いと言えるだろう。

登場する実験施設の一部は、現代の感覚からはなんとなく魔術的だと感じられるかもしれない。一方、近現代の科学と強く結びついているような考えも数多くある。

具体的には、本書の中で示された学問研究の組織化が、本書の初版から三、四十年後に早くも一六六〇年代のイギリス王立協会、フランス科学協会の設立へと繋が
っている。動物園や植物園は本書の出版当時にもあったそうだが、光学研究所や音響研究所の考えは先進的だった。

これらのことからも、本書が単なる理想に終わらなかった事実と、本書の影響力の大きさが分かるだろう。

現代に繋がるような科学研究の道を示したとはいえ、現代と大きく違う時代背景の中で書かれた本だということは読んでいて痛感した。私が驚いたのは、理想的な科学技術研究所を構える島の住民でさえ、敬虔なキリスト教徒が高い地位に着き、神話的、宗教的な話を躊躇いなく話すことであった。

現在から見れば明らかに「非科学的」な、キリスト教が島に伝来し
た時の話さえ、島民により堂々と話されていたのだ。神の「み恵み」など現代では聞き慣れない言葉や、聖書からの引用も作品全体において多用されることからも、当時、ヨーロッパにおいていかにキリスト教と生活が深く結びついていたかが分かる。

本書(岩波文庫版)では物語の後に作者の伝記が付されている。
ベーコンの専属司祭兼文筆助手であったウィリアムローリーによる、ベーコンの伝記である。

ここでは高貴な家柄に生まれ、当時のイングランドにて行政トップの役職であった大法官まで上り詰め、その後失脚し、研究と著述に専念したベーコンの生涯が礼賛されている。ただ、この伝記には誤りも数多く含まれているらしく、注釈において多くの誤りが後の研究者により指摘されていた。


今の社会の根底にあり、今の我々の暮らしと不可分な科学、人の脈々とした営みが、ここから始まっていき、我々もその流れの中にいるのだと感じるときの感動は大きかった。キリスト教の考えが根深く、現代の日本人にとっては慣れない一方、物語そのものは六〇ページほどと短いためとても読みやすい。「教養」をお手軽につけるにはもってこいの本と言えるだろう。

(あきら)

出版社のサイトに飛びます:https://www.iwanami.co.jp/book/b246701.html

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