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4月, 2020の投稿を表示しています

生協系団体合同新歓のおしらせ

今週末 5/2(土)に、生協系3団体で合同新歓を開催いたしますので、お知らせいたします。参加団体は、 駒場学生委員会(C学) 書評委員会ひろば 新入生サポートスタッフ となっております。事前の申し込みが必要になりますので、ご注意ください。 詳細・申し込みは、以下のURLからお願いいたします。 http://www.utcoop.or.jp/cgaku/news/news_detail_5575.html

編集会議のお知らせ

本日20:00~編集会議を行います。現ひろば民の皆さんはもちろん、ひろばに興味のある新入生の皆さんも歓迎いたしますので、ぜひご参加ください。 なお、編集会議への参加には、東京大学のメールアカウントでzoomにログインしている必要があります。ご注意ください。 ----------------------------------------------------------------- トピック: 書評誌『ひろば』 編集会議 時間: 2020年4月29日 08:00 PM 大阪、札幌、東京 Zoomミーティングに参加する https://zoom.us/j/91449065985?pwd=ZytsTkNSbGJqa2pXTGNvQ3JacTVVQT09

『承認をめぐる病』

 現代人は承認を欲している。 私達は将来の社会的承認を得るため難関大学に入り、友人からの承認を得るためサークルに入り、より深い承認を得るため恋人を欲し、フォロワーからの承認を得るため SNS に写真を投稿する。 私達は承認欲求が肥大化し、承認に飢えた時代に生きている。かつて当たり前のようにあった共同体からの承認は、共同体の解体により消え、コミュニケーションツールの発達は承認の満足を与えず 、その欲求ばかりを刺激する。 そんな時代に「承認をめぐる病」が増えるのは当然だろう。しかし、承認に関連した現代人の精神状態についてきちんと考えたことのある人は少ないのではないか。その視座を与 えてくれるのが本書である。 本書の本文は一七の章からなっており、各章のテーマを通して現代人の精神が分析されている。テーマはもちろん、そのときに使われる手法、視点はとにかく様々である。サブカル チャー、犯罪事件、精神医学、哲学、…通して見てみると、総動員といった感じである。多様な題材を扱いつつ、若者を中心とした精神分析が本書では展開されているが、「キャラ」という概念を頼りに話が進 む場面が多い。 ここで軽く、その展開の一部について述べたい。「キャラ」とはキャラクターの略のことで、最近では自分の性格、特徴を表すのによく使われる。人格の同一性を示すのみならず、成長や変化を 嫌い、知人との関係性や社会観を固定化する効果もある。その結果、スクールカーストの維持や、社会は変わらないという意識へと繋がっている、という説明がなされる。 「良い子」について書かれた本文の内 容についても、印象に残ったので紹介したい。所謂優等生で、親から言われたことをやる「良い子」が思春期以降抱えがちな問題点について第四章で言及されていた。「良い子」は親から目標や条件付きの承認 を得られることで、思春期以降に家族以外の他者との関係や、自己評価について問題を抱えてしまいがちになってしまうという話である。「良い子」の特徴には自分も当てはまるものがあり、読んでいて耳が痛 かった。この章の話は東大生の中にも当てはまる人が多いのではないかと思う。 本書のまえがきでは、当たり前だと見なされている構造的状況に対して、分析を用い、意識化して対抗する戦略が勧められていた 。自分も含めた若者の精

『日本の伝説』

一年生の皆様は初めまして。二年生以上の方々、お久しぶりです。もはや手遅れな感もありますが、あけましておめでとうございます。 ということで富士山です。  皆さんは富士山に登ったことがおありでしょうか。なるほど。それでは登ったことが無い人で、今後とも絶対登る気が無い人はいらっしゃるでしょうか。なるほど、なるほど。やはり、日本人として一度は富士山に登りたい、そう思う方も多いのではない でしょうか。 その理由は明確。富士山が名実ともに日本のシンボルとしてとらえられているからです。某 CM でもサムライ、フジヤマ、カップヌードルと言っていましたし。  そんな風に富士山が国民的にシンボ ルとなったのはどうしてでしょうか。阿部 (1992) によれば明治期に国を表すものとして可視的な富士山が見いだされ教育に持ち込まれ、それがまたその正当性を支えるという循環が存在したから、と分析してい ます。確かに教育による刷り込みというのは存在するのかもしれません。  しかし、それでは少し味気ない気もする。そう思っていたところ、本書『日本の伝説』より“日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました”という記述を見つけました。 ここで面白いのは山(の神)同士が背の高さで競争したり、形状に嫉妬したという伝承が散見されるところです。山々の背の高さで勝負するというのはグーグルマ ップの普及した現代に生きる我々からすれば全く感覚がつかめないところで(因みに日本で第二位は北岳だとご存じでしょうが第三位はどうでしょう。奥穂高岳・間ノ岳の 3190m でした)、そうした理由を柳田国男は“人々が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に”と分析しています。 柳田国男は一国民俗学を提唱し、日本文化を単一・同質の文化としてとらえ、山の神信仰は稲作に依ると考えていたためこ のようなマクロ的な分析が可能だったのかもしれません。もちろん農耕だけでなく様々な文化が混在していると批判する佐々木 (2006) などの主張もあると申し添えておきますが、いずれにしろ山には人を引き付 ける力が古くからあったのは間違いないようです。 ということは、日本という国がまとまりを持った以上は遅かれ早かれ富士山が人々すべてを引き付けるようになるのは容易に考えられることであ

駒場1年生の方へ(新歓日程のお知らせ)

今年は新型コロナウイルスの影響もあり、ひろばでも今年の新歓活動を全面オンラインに切り替えています。 この記事では、今年東大に入学された方向けに、新歓の日程をご案内いたします。 現在企画している新歓日程としましては、 他団体との合同新歓(企画中につき日程未定) 毎週の編集会議(毎週水曜20:00~)への参加 (ともにzoomを用いてオンラインで実施) の2種類になっています。zoomのURLは本ブログやTwitterで告知する予定です。荒し対策のため、事前に会議への参加登録をお願いする場合があります。 (告知の際に、登録のやり方を含めてご連絡します。) 一つ目の他団体との合同新歓 については、現在調整中ですので、追って日程をご連絡させていただきます。本団体Twitterや本ブログを参照ください。 二つ目の編集会議 については、本団体が通常の活動として行っている編集会議に、本団体に興味がおありの一年生にもご参加いただこうというものです。 編集会議は 毎週水曜日20:00~ に実施されているので、都合の良い週にご参加いただけます。編集会議といっても、通常はさほど忙しいわけでもなく、ほとんど雑談のような会議になることも多いですから、お気軽にご参加ください。 幅広い科類・学部の方々が在籍していますので、大学生活に関して心配事などがありましたら、ご相談いただくことも可能です。 さて、以下はブログの管理をしている人間からの、新入生へのちょっとしたアドバイスです。興味がないという方は、読み飛ばしていただいて構いません。 去年、僕自身が東大に入学したときのことを思い出すと、漠然とした期待と、比較的明確な不安とに包まれていたように思います。 何か面白いものがあるかもしれない。けれども、実際問題として僕はやっていけるんだろうか。そんな、冒険前夜のような奇妙な緊張感がありました。 程度の差こそあれ、皆さんもそんな気持ちはあるかと思います。 特に今年は、同級生の顔が見えない状況で授業が始まるという異例の事態ですので、むしろ不安のほうが大きいのかもしれません。 この文章は、そんな皆さんの不安を少しでも軽減できたらという思いで書いて

『鷹と生きる』

鷹使い。 テレビや漫画などで、一度は耳にしたことがある職業だと思う。本書は、そんな鷹使いの中でも、「日本最後の鷹使い」、松原英俊氏の半生に迫ったドキュメンタリーである。 日本最後? 鷹匠はまだ何人もいるんじゃないの? と思う方も多いだろう。勿論、鷹で狩りを行う人は日本にもまだまだいる。しかし、そうした人々が使うのは総じてオオタカなどの小型の鷹だ。 その中で松原氏は、クマタカなどの大型の鷹で狩りを行える、ただ一人の存在なのである。かつては東北などに多くいた「鷹使い」の伝統を受け継ぐ唯一の存在、その意味で「最後の鷹使い」と呼ばれているのだ。(※現代では混用されることも多く、松原氏自身も頓着していないが、 「鷹匠」は元々江戸幕府の保護を受けた人々、およびその流れを継ぐ人々の称号である)  題名のイメージとは反して、本書は鷹匠と しての生活や技法を説明した本ではない。 もちろん松原氏の生活や鷹狩の訓練・方法も記されているのだが、本書の焦点はあくまで「松原英俊」という特異な一個人そのものにある。  そもそも、鷹使い・鷹匠というのは、現在では職業として成立しない。冬しか狩りを行えず、獲物となる兎などの需要が小さいうえ、鷹に与えるエサの費用がかさむためだ。松原氏もその例外ではなく、生活費は夏の間の土木作業や、鷹狩り関連の講演などで賄っている。 そんな状況の中で長年鷹使いを続けていること自体がそもそも特異なのだが( その理由や経緯は本書でも詳しく述べられている。 詳しくは本書を参照のこと(ダイレクトマーケティング))、それは彼の特殊性のほ んの一端にすぎない。読み進めていくと、いい意味でも悪い意味でも、「この人本当に人間なのか?」という疑問が湧いてきてしまう。 何というか、文字通り人間離れしているのである。  まず行動がすごい。歩いていて蛇を見つけたら、あなたならどうするだろうか。せいぜい距離を取って眺めるか、無視して通り過ぎるかといったところだと思う。松原氏は違う。とりあえず掴む。どうするのかは考えず、反射的に掴むという。もちろん、あとで鷹のエサにしたりするという目的はあるのだが、その瞬間は何も考えていないらしい。相手が毒ヘビでもついやってしまうというのだから驚きだ。 他にも、電気もガスもない山小屋でただ一人修業したり、大きなイカと格

『茄子の輝き』

人間の記憶は変質するものだ。 あるいは年を経て細部を忘れ、あるいは物の見方が変わり、次第に別のものに変容してゆ く……そういう経験は誰もがあるだろう。 本書は、そんな「記憶」を呼び覚まし、留めようとする営みを丹念に描いた連 作短編集である。  本書は表題作を含む六つの連作短編と、それらとは独立した一短編からなるが、本書評では構成など の都合で主に連作部分を紹介・批評する。 物語は主人公・市瀬の一人語りで展開する。勤務先のカルタ企画での人間関係 や、市瀬がアイドル視する女性社員・千絵との出会い、そして読み返される過去の日記を背景に、別れた妻との思い出を 留めたり、逆に抑えたりしようとする様子が淡々と描かれていく。 バラバラの時系列で、時に同時期のことを幾度も回想 し、過去の自分と対話をし、訂正(あるいは改変なのだが、現実の記憶同様に、真相を解明する術はない)し、しばしば現 実を離れた妄想をも編み込んでゆく独特の重層的な語り口が、私たちを繊細に組み上げられた世界観へと没入させる。  本作最大の魅力は、そういった多層的な構成である。妙にゆるい社風のカルタ商事でのお茶くみにまつわる一コマ、免許 証再取得のための小外出の顛末など、出来事のそれぞれはリアルに描かれているのだが、騙りての記憶と化したそれらを 描き直し、空想と混ぜて積み重ねてゆくことで、立体的な作品世界が実現されている。 特異な構成とそれと同じくらいに 印象に残るのは、主人公市瀬の突飛な行動である。元妻に固執し、千絵を半ば崇拝するあまりのその行動は若干……いや 、時には明らかに異様であり、市瀬自身もそれは自覚している。 しかし、読んでいる最中は、妙に落ち着いた筆致のせい で異様さが中々実感されないのである。それが恐ろしいと同時に、この「記憶」に固執するがゆえの行為は、程度の差は あれ、私たちも知らず知らずに行ってしまっているのではないかと感じさせられる部分がある。 ……というとサイコホラ ーの紹介みたいだが、全体の展開はあくまで穏やかで綺麗なもので、読後感も爽やかなので、それはそれで不思議である 。 ただ、ここまでの説明でもわかるように本作は所謂〝文学的〟要素の強い作品であり(因みに著者は芥川賞作家である) 、好きになれるかどうかは相性によるところも大きいだろう。特に派手な大

『ヴァリアント・エクスペリメント』

「冒険」の定義とは何だろうか。 辞書を引くと、危「険」を「冒」すことだとある。 現在はそこから意味が拡大して、危険を伴うような旅や計画を指すこともあるが、文字通りの意味で言えば、この作品は大いに〝冒険〟小説と言えるかもしれない。何しろ、主人公はほぼ常時、命の危険に身を晒しているのだから。  ある地方都市で何でも屋を営む女性・は、ある特殊な能力を持つ《異能者》(ヴァ リアント)であった。ある日、彼女が公園で暇を潰していると、喋る黒猫に助けを求められる。猫を追っていたのは《異能者》。式条 は初めて同類と出会えたことに昂揚しつつ追っ手を撃退し、猫に導かれるままに「異能実験」という名のバトルロイヤルが行われるという島へ向かう。バトルの手掛かりとなるのは発信機の埋め込まれた各自のカード(集めるほど賞金が増える)と、黒猫を含む使い魔たちの感知能力のみ。一癖も二癖もある《異能者》同士の命がけのバトルの行く末は……?  以上のあらすじを読んでもらって分かったと思うが、本作のあらすじを語ることにさしたる意味は無い。異能者が出てくる、戦う、倒す。「異能バトル小説」という形式を思いきり単純化したような図式なのだが、寧ろこの作品の場合、そうだからこそ何も考えずに純粋に楽しめるのだ。 ステレオタイプというものはしばしば「n番煎じ」などと批判されるが、それが本質的に面白いからこそ、様々な作品で使いまわされてゆくのである。 かっこいいおねーさんが戦う! 活躍する! 蹂躙する! これが面白くないはずがない! ……なんだか物凄く少人数に向けたプレゼンにな ってしまったので、頑張って軌道修正を図ろう。  本作の魅力は、無軌道に見えつつも実は裏でちゃんと展開しているストーリーとか、ありきたりなようで微妙にクセのある《異能》やそれを操るキャラクターたちとか、サブヒロインの芦屋悠里が可愛いとか細かい部分で色々存在するのだが、やはり特筆すべきは主人公・式条丹の特異性である。  バトルロイヤルものではふつう、多彩な参加者のうちだれが生き残るのか、という、緊迫感あふれる駆け引きが魅力となるものであろう。あるいは、主人公がいる場合には、その正義が問題となることもある。 しかし本作にはそのどちらもない。この文の冒頭で本作の主人公=式条は常に命の危険に晒されていると書いたが、それは

『ニュー・アトランティス』

太平洋横断の航海。難破してしまう船。奇しくも辿り着いてしまった未知の島。これは冒険書か? いや違う 。科学の道筋を示した本だ。 フランシスベーコンが科学における実験の仕方を示したことを知っている人は多いかと思う。科学哲学に大きな影響を与えた彼が考えた、理想的な科学研究所を、孤島「ベンサレムの国」の中に描いたのがこの本である。 本書は途中までは単なるフィクションの冒険書かのように見えるが、この雰囲気は、難破した島にある科学施設「サロモンの家」の説明に入ると一転し、淡々とした文体へと変わる。 サロモンの家ではさまざまな研究、実験がなされる。 例えば、動植物の収集や、薬の調合、光学や音響、動力などの研究だ。説明の最後には、サロモンの家の話を他の国々に公表することを許す、とあり、こうして物語は締めくくられる。 現実世界と最後に再びリンクするストーリーが臨場感を生んでいる。 当時ベーコンにより考えられた科学の理想と、現代の科学との相違点を知ることができる点で、本書は興味深いと言えるだろう。 登場する実験施設の一部は、現代の感覚からはなんとなく魔術的だと感じられるかもしれない。一方、近現代の科学と強く結びついているような考えも数多くある。 具体的には、本書の中で示された学問研究の組織化が、本書の初版から三、四十年後に早くも一六六〇年代のイギリス王立協会、フランス科学協会の設立へと繋が っている。動物園や植物園は本書の出版当時にもあったそうだが、光学研究所や音響研究所の考えは先進的だった。 これらのことからも、本書が単なる理想に終わらなかった事実と、本書の影響力の大きさが分かるだろう。 現代に繋がるような科学研究の道を示したとはいえ、現代と大きく違う時代背景の中で書かれた本だということは読んでいて痛感した。私が驚いたのは、理想的な科学技術研究所を構える島の住民でさえ、敬虔なキリスト教徒が高い地位に着き、神話的、宗教的な話を躊躇いなく話すことであった。 現在から見れば明らかに「非科学的」な、キリスト教が島に伝来し た時の話さえ、島民により堂々と話されていたのだ。神の「み恵み」など現代では聞き慣れない言葉や、聖書からの引用も作品全体において多用されることからも、当時、ヨーロッパにおいていかにキリスト教と生活が深く結びついていたかが分かる。

『ほら男爵 現代の冒険』

皆さんは小中高と通うなかで夏休みの宿題であったりで「読書記録」的なことをやらされたことはないだろうか。 自分で読んだ作品名を書いて、ある程度感想を書いて、その合計作品を一定数以上にしなければ ならないというあれである。やったことがない人はごめんなさい。 個人的には、読む本は自分で決められるという点でまだ(そもそも本なんて好きに読めばいい、それを強制するから反発が生まれると個人的に は思う)良心的だと思っている。 そんな課題の救世主として有名なのが、皆さんもお世話になったことがあるかもしれない星新一である。ショートショート一話を一作品と見なせば、数ページで課題がアッとい うまに終わるのだ。  前置きが長くなった。 本書はそんなショートショートの名手、星新一によるコミカルな連作である。この書評を読んでいるような奇特な方であれば、何をいまさら星新一など通俗的なもの を、と思うかもしれない。もっと文学的なものを寄越せ、と。 そこで今回はそうした意見があると仮定したうえでそれに反論する形で進めていきたいと思う。  そもそも本書はいったいどんな形式で進むかという話。 雑に言えばあのほら男爵の子孫がどう見ても嘘にしか思えない珍道中を繰り広げるも、その出自から誰も信じてくれないという流れがある。 言い換えれば、ほら男爵のパロディとして舞台を設定すること で労せずして物語を回せるような仕組みが出来上がっているのだ。そうした下準備にも敬服だが、そうした流れの中で、本書のいいところがどう表れているのか、見ていきたい。  まず第一に、そもそもなぜ通 俗的であってはいけないのか。大衆受けするということはそれ自体、「面白いこと」の確約ではないのか。 確かに精進料理のように滋養にあふれた書というのは世間に存在していて、そうしたものを見つけると いうのは何よりも好ましいところである。しかし何も滋養のあるものに限らず、日々の生活の中では箸休めとして気軽に読めるものも必要であろう。 その中では、本書は特に引っかかることもなく万人が気安く 読めるという点で間食のようなやさしさがある。しかも、その中に明確な筆力、経験が裏打ちされているのだから、スナックのような、薄っぺらい感覚ではなく、和菓子の上質なそれと同じように楽しめるので ある。要するに、万人受けするfunn

ごあいさつ

書評誌『ひろば』は、東京大学駒場キャンパスの学生によって構成される文学系サークルです。生協書籍部の下部組織として運営しており、主な活動内容は幅広い書籍の書評・紹介です。 例年は、年に3,4回ほど冊子を発行し、駒場キャンパス内で無料配布していましたが、今年は新型コロナウイルスの影響もあり、ブログという形で皆様に書評をお届けしていくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。