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『日本の伝説』


一年生の皆様は初めまして。二年生以上の方々、お久しぶりです。もはや手遅れな感もありますが、あけましておめでとうございます。

ということで富士山です。 

皆さんは富士山に登ったことがおありでしょうか。なるほど。それでは登ったことが無い人で、今後とも絶対登る気が無い人はいらっしゃるでしょうか。なるほど、なるほど。やはり、日本人として一度は富士山に登りたい、そう思う方も多いのではない でしょうか。

その理由は明確。富士山が名実ともに日本のシンボルとしてとらえられているからです。某CMでもサムライ、フジヤマ、カップヌードルと言っていましたし。 

そんな風に富士山が国民的にシンボ ルとなったのはどうしてでしょうか。阿部(1992)によれば明治期に国を表すものとして可視的な富士山が見いだされ教育に持ち込まれ、それがまたその正当性を支えるという循環が存在したから、と分析してい ます。確かに教育による刷り込みというのは存在するのかもしれません。 

しかし、それでは少し味気ない気もする。そう思っていたところ、本書『日本の伝説』より“日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました”という記述を見つけました。

ここで面白いのは山(の神)同士が背の高さで競争したり、形状に嫉妬したという伝承が散見されるところです。山々の背の高さで勝負するというのはグーグルマ ップの普及した現代に生きる我々からすれば全く感覚がつかめないところで(因みに日本で第二位は北岳だとご存じでしょうが第三位はどうでしょう。奥穂高岳・間ノ岳の3190mでした)、そうした理由を柳田国男は“人々が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に”と分析しています。

柳田国男は一国民俗学を提唱し、日本文化を単一・同質の文化としてとらえ、山の神信仰は稲作に依ると考えていたためこ のようなマクロ的な分析が可能だったのかもしれません。もちろん農耕だけでなく様々な文化が混在していると批判する佐々木(2006)などの主張もあると申し添えておきますが、いずれにしろ山には人を引き付 ける力が古くからあったのは間違いないようです。

ということは、日本という国がまとまりを持った以上は遅かれ早かれ富士山が人々すべてを引き付けるようになるのは容易に考えられることであり、教育はそ の過程を早めただけと捉えることも可能でしょう。

要するに富士山はその形質故に日本人の心に刻まれる運命にあったということです。 

そう考えれば私たちがぼんやりと富士山を初夢に見たいなと思う、その 行為こそ連綿と続く文化に足を踏み入れることだと捉えられるのではないでしょうか。 

ということで、富士山に関する小レポートのようになりましたが、そういえばひろばは書評誌でした。

そこで一応ここか らは大衆小説でもなく、純文学でもなく、かといって新書ともいえない、そうした民間伝承や伝説を読書するということの魅力について少し語りたいと思います。

民間伝承のデメリットは何か。そこから考え てみましょう。どうみても話にまとまりが無いことです。

本書を読んでいただければわかるように、お互いの逸話のスケールの差であったり着眼点の差であったりで読者は振り回される一方です。華麗な伏線回 収なんて期待しない方がいいでしょう。

けれども、そここそが良い点だと私は思うのです。地域の人々が、他地域の伝承に影響を受けながらも自らの暮らしに最も当てはまる物語を作り出した、その結晶、最高 傑作が品評会のように展示されているのです。それに思いをはせるとロマンを感じないでしょうか。

いくらでも考察の余地のある、そんな力を秘めた生活感あふれるこの名作集には教養として一読する価値があ る、そう言い切っておきます。そして気が向いたら、富士山にも登ってみるのもなかなか乙なものかもしれません。それでは、皆さんの新たな生活が満ち足りたものになることを願って筆を置きます。


(ちくあん)

出版社のサイトに飛びます:https://www.shinchosha.co.jp/book/104702/

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