スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2020の投稿を表示しています

『世紀末芸術』

十九世紀から現代に至るまでの美術史は、「イズムの交代」として記述されることが多い。 モネ、ルノワールら印象派という輝かしい一等星から始まる近代絵画の旅は、マティスやヴラマンクの活躍するフォーヴィズム(野獣派)、ピカソらによるキュビズム、未来派、エコールド・パリ、ダダイズム、シュルレアリスム、構成主義、抽象画などの星々を旅して、現代芸術へと続いている。 印象派から始まる、絵画の自律性を目指す輝かしい旅の歴史― しかし、あま りに強い星々の輝きのせいで、我々はしばしば他の星々を見失ってしまう。 物理学の歴史を紐解いてみれば、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルト、マクスウェル、アインシュタインなどの科学者が偉大な科学者として教科書に名を連ねる中で、しかし同時に、彼らの偉大な発見の途中には、常にいくつもの学説(クーン風に言えば「パラダ イム」)が並び立ち、試行錯誤を続けてきた。彼らの「実験」は、今は間違っていた学説といえるが、それ抜きに物 理学の発展を語ることはできない。 輝かしい星々の間には、いくつもの星々がうごめいており、その中には見逃すことのできない星々がいくつもある。 今回紹介する本は、印象派の終わりから野獣派の始まりへ至る1882年から1907年の旅、その世紀末の二十年間の「空白」が、しかし、決して虚無などでなく、様々な試みが見られる「実験」の時代であり、現代芸術への重要な思想・技術が芽生えていた時代であったことを教えてくれる。そして、そうした多様さと緩やかな統合が、この世紀末絵画の特徴であると気づかされる。世紀末芸術は空間的にも技術的にも従来の芸術システム内部に存在していた境界を解体した。単にキャンバス画家だけでなく、壁画家、ポスター画家、写真家、さらには技術家や本の装丁家までもがヨーロッパ各地から集まり、中東やアフリカ、日本などのさまざまな地域の影響を受けながら新たな芸術を目指していく。そこでは従来の芸術の在り方は解体し、「統合芸術」への歩みを進めていく。 こうした発想は私にとって非常に新鮮なものであった。世紀末絵画というと、その名称や、ムンクやルドンの絵の幻想性も相まってどこか混沌とした感じがあった。しかしその混沌さこそが新たな芸術の動きなのだという考えは、非常に逆説的であり、同時に説得力のあるものである。そう考えると、現代芸

『空の境界』

Fateシリーズ(共作)等で有名なシナリオライター・小説家、奈須きのこ。本作はその代表作である。 題名を知っているだけ、あるいはアニメ版を見ただけ、という方はそれなりに多いかもしれないが、原作をちゃんと読んだことがある人は、案外少ないのではないだろうか。だがそれでは勿体ない。小説としての本作が、アニメ化前に、既に世紀の変わり目に一世を風靡していたのには、しかるべき理由があるのだから。 二年間の昏睡から目覚めた少女・両儀式は、ある種の記憶喪失と引き換えに、生物から物体まで、あらゆるモノの死を視ることのできる〝直死の魔眼〟を手に入れていた。一見平凡な友人・黒桐幹也、その雇い主の魔術師・蒼崎橙子らと共に、一応の日常生活に復帰した式だったが、多発する幽霊の噂、謎めいた殺人事件など、周囲で不穏な出来事が起こり始める。それらが示すものとは。そして、式の昏睡の裏に在る真相とは――? 本作のジャンル分けは難しい。序盤の道具立ては推理小説的であるが、あらすじにもある通り魔術などのファンタジー的要素、それを理論的に裏付けるSF的要素も絡んでいる。ジャンルとしては当初「新伝奇」とされたが、ライトノベルに分類されることもあるようだ。 しかし、そんなことは些細なことである。そうしたジャンルに収まりきらない深遠なスケール、一種詩的な独特の雰囲気こそが、本作の特徴なのだから。 そんな本作の魅力は、何と言ってもキャラクター・世界観の格好良さである。まず主人公の両儀式からして凄い。端正な美貌ながら口調は男性的、服装はいつも着物だが冬にはその上から無頓着に革ジャンを羽織り、ナイフを巧みに操って怪異と対峙する……何とも設定盛りすぎなのだが、人物描写は丁寧で、実際に読むと違和感を感じることなく純粋に魅かれてしまう。他のキャラクターや設定にしても、要約されるとある種中二病じみてはいるのだが、綿密かつ論理的に組み上げられた世界観、そして人物を魅せる台詞回しには、そうした欠点を感じさせずに、読者を作品世界に引き込んでしまうパワーがある。ただ、もちろん相性の問題はあるので、人物が好みに合わなかったり、世界観に上手く入り込めなかったりする人には、そうした描写が冗長にしか感じられず、やや楽しみにくい作品となっているのは否定できない。 キャラクターと並んで際立っているのが、文章自体の切れの良さで

出版・メディア系合同新歓実施のおしらせ

5/17(日)①14:00~ ②20:00~ にZoom上で東大生協駒場学生委員会(C学)・biscUiT・ひろばの3団体による合同新歓説明会をおこないます。まだサークルが決まっていない新入生の皆さんや、 出版・メディア系の団体に興味のある皆さんはぜひご参加ください。 ご参加の場合には、事前に以下のフォームへの登録が必要となります。 (東京大学提供のECCSメールアカウントが必要です) https://docs.google.com/forms/d/1koqgrtH8AWBM-ZX8_Iidg2rxSF27Q2gGgX1D_xNBMYs/edit

『アンダーグラウンド』

1995年3月20日にオウム真理教が丸ノ内線、日比谷線、千代田線内にてサリンを散布し、13人が亡くなり、約6000人が負傷した地下鉄サリン事件。 本書はこの事件について、村上春樹が被害者にインタビューし、その証言をまとめたノンフィクションである。『ノルウェイの森』『1Q84』などの長編小説で有名な村上春樹だが、短編集、エッセイそして本書のようなノンフィクションも彼は書いている。 本書ではそれぞれの証言がおよそ10ページ、8000文字程度に渡って書かれ、64名の証言が掲載されている。最初に「はじめに」、終わりに「目じるしのない悪夢」と題した村上春樹の文章が載っていて、インタビューの動機と方針、事件についての所感が書かれている。また所々に被害者とは別に、被害者の治療に関わった医師、事件被害者や信者の家族のために活動する弁護士など、専門家へのインタビューが挟まれる。 被害者へのインタビューは全て村上春樹本人が行い、二時間程度のインタビューの録音をもとに、村上春樹が分かりやすく編集した文章を載せている。分かりやすくするために文章の一部を削ったり、文章の順序を入れ替えたりしたとはいえ、文章はできるだけ本人の語りの雰囲気が残るようにした、と作者は語っているし、事実一人一人の語り方が伝わってくるような文章になっていると感じた。インタビューそのものは村上春樹の発言は少なめで、村上春樹の質問に対するインタビュイーの回答がほとんどであった。 本書で特徴的なのは、被害者の一人一人、に焦点が当てられている点である。いきなり事件当日の状況、被害を話してもらうのではなく、インタビューは被害者の個人的な話から始まる。どのような生い立ちで、今どのような仕事や生活をしているのか、通勤路と通勤時間、家族構成などがまず話題となる。どのような生活をしている方なのかある程度分かるようになった時点で、話題は事件当日の話へと移る。被害者Aではなく、一人一人のイメージを持って読むため、臨場感や証言の重みは増す。各証言の題名として証言内のフレーズ、一文が使われていたり、証言には本人の名前(仮名も含む)が全て明記されている点も語りに重みを出す効果を生んでいる。本人の像がより具体的に想像できる分、被害の記述を読むことは興味深くなる一方、当然辛くもなる。 当日の話、その後の通院や回復の過程の話をし

『トルストイと生きる』

書評誌「ひろば」編集会議で秋号はノーベル文学賞をテーマにしたいと聞いたとき、私の頭にトルストイの名が浮かんだ。 私がかつて聞きかじったところだと、あのロシアの大家はその思想の危険さを理由にノーベル賞を受賞できなかったという。この話は、主婦の友社『ノーベル賞文学全集別冊 ノーベル賞物語』に収められる、ノーベル賞の選定機関スウェーデン・アカデミーの常任理事をかつて務めていたエステルリンクの記述に発見できた。当時ノーベル賞受賞者を選ぶスウェーデン・アカデミーの事務次官だったヴィルセンは、トルストイを「文明を否定し」、「無政府主義の理論を唱え」、「新約聖書を勝手に書き直した」、と述べたという。こういった非難は現代人の目から見て、明らかに一面的で誤ったものと断定できるが、このような非難を受けることは、トルストイの作品が、多分に思想的、宗教的な意味を持つことを考えると当然のものともいえる。 前置きが長くなったが、私が今回書評するのは日本のトルストイ研究の第一人者であった故藤沼貴の論文集『トルストイと生きる』だ。前述のようにトルストイの作品には、思想的な要素が多く、トルストイ研究は必然的に、その思想はどのようなものだったかという問いに、作品や、作者自身の言動を通して迫るものになる。そのため、この本に描き出された見事な分析を通じて、読者はトルストイの文学と思想について思考するための材料を得ることができるだろう。この本に載っている論文は、それぞれ多彩な角度からトルストイをとらえている。作品をそのまま分析したものもあれば、その制作過程を捉えたものや、トルストイの経験とその思想的影響を推察する伝記的なものもある。 しかし、その方法の多彩さに対し、常に導き出されるトルストイの姿は同じである。トルストイはさまざまな点で、他者から学びつつも常に他人と距離をとり、多くの人々より感情的、直感的な方法で自らの思想を打ち立てている。このような繰り返し本書で導き出されるトルストイの姿は、興味深いがあまりにも一般的かつ単純であり、多様な人物が登場して読者を楽しませるトルストイの作品や、前述したノーベル賞を与えられない理由となった、彼の過激と受け取られるアクティブな言動以上に面白いとは言えない。トルストイの面白さが真に現れるのは、分析の素材と過程、明確に思想として定められたものよりも、彼自身の生

編集会議のお知らせ

本日20:00~編集会議を行います。現ひろば民の皆さんはもちろん、ひろばに興味のある新入生の皆さんも歓迎いたしますので、ぜひご参加ください。 なお、編集会議への参加には、東京大学のメールアカウントでzoomにログインしている必要があります。ご注意ください。 ----------------------------------------------------------------- トピック: 書評誌『ひろば』 編集会議 時間: 2020年5月6日 08:00 PM 大阪、札幌、東京 Zoomミーティングに参加する https://zoom.us/j/96167415177?pwd=cnZSYk81cUY1YllhdHNZcUFiODZPdz09

『本を読む本』

大学に入って気づいたことがある――私は本を読むのが下手だということである。 もちろん、本の文面が読めないというわけではない。しかし、その文面の奥にある筆者の思想がどのようなものか、そしてそれがいかに素晴らしいかといった問いに対して私は上手く答えることができないということを実感したのであった。  「どうすれば本を『上手く読む』ことができるのだろうか」——本書評誌サークルに所属している私にとって、これは死活問題であり、常に私の頭をもたげる問題であった。 また、これは多くの大学生が共有してくれる(と私は信じている)課題であろう。 そんな悩みを抱えていた私の前に、本書『本を読む本』が(本当に偶然だったが)現れたのであった。まさに「我が師を得たり」と言った感覚であった。  本書は いかに本を「読む」か という実践指南書である。ただし、筆者の想定する読書は「深い理解のための読書」である。つまり、筆者の言葉の奥にある思想を完全に理解して筆者の精神と自己の精神の和合を目指しつつ、同時に筆者の思想に質問を投げかけることで自己を啓発するような、そんな読書である。 平たく言えば、情報を得るための読書ではなく、むしろ筆者という一人の人間と対話するなかで知識を深めていく読書だといえよう。  そして、読書には積極的読書が必要であるというのが本書の中心命題となる。深い理解のためには、筆者の意図を読者が尋ねるようにしつつ、最後にはそれに対する自己の意見を述べなければ、筆者と対話したとは言えないというのである。  では、積極的読書に至るためにはどうすればよいのか。 本書の最も優れているところは、この積極的読書に達成する方法を細かく段階に分けて、仔細に説明してくれているところである。この手の「読書論」は「筆者の精神、考え方を理解するように読むべきだ」というような抽象論に留まることが多いように思われる。こういった方法論を見ると、「実際どうすればよいのか」がわからなくなるというジレンマに陥りがちである。  本書はその点をよく理解しており、読者がどの順番で何を行えばよいかを順序だてて教えてくれる。家電についてくるマニュアルのような細かさだが、さすが読書に精通している筆者である、細かいながらも、そこには具体例や比喩、エピソードを織り込みつつ話してくれるので、飽きずに読み進

『英語達人塾』

前述した『英語達人列伝』で、英語の達人たちを見てきた。 これを現代の我々の英語学習に応用する事は出来ないだろうか。この問題に取り組んだのが本書『英語達人塾』である。  ここでもまえがきを引用する。 「これは英語独習法の解説書であり、その実践の場としての『自習塾』である。最終目標とする英語の習得段階は、日本人の最高レベルに設定してある。」  ここまで目標の高い英語学習本は他に無いだろう。巷に溢れるお手軽なハウツー本が消し飛ぶ勢いだ。  では、どんな学習をして「日本人の最高レベル」を目指すのだろうか。目次を見てみよう。入塾心得の後には、 音読 素読 文法解析 辞書活用法 暗唱 多読 丸暗記 作文    と続く。 おい、英会話がねえぞ。 ご安心を。その後の「視聴覚教材活用法」「その他の学習法」にちゃんと書いてあります。しかし、著者はここでも警鐘を鳴らす。 「文法無視でただペラペラとしゃべりまくる癖がついてしまうと、多くの場合、そこで英語学習が頭打ちになる」(まえがき)。 オンライン英会話は手軽かつ安価(ここ大事)に英会話の場を提供してくれる素晴らしいサービスだが、利用する時は常に右の言葉を忘れないでおきたい。  さて、本書の紹介は以上である。後は各自で購入して英語学習の指針として欲しい。と言ってみんな買ってくれたらマーケティングは要らない。かと言ってここで本書の要約を書いても劣化版が出来上がるだけなので書かない。 その代わりに、本書評の読者が気になりそうな質問に答えていこう。 問 …目次にある素読って何ですか。 答 …素読の章の本文より引用すると、「意味や内容をあまり考えずに同じ文章を何度も音読すること」です。「ただ英語の響きを楽し」み、「英語の『ノリ』を体で覚えてしま」うのが目的です。 問 …文法って高校でやったのでいいの? 答 …東大に受かっているなら最低限は大丈夫でしょう。とは言え、文法用語には不安があるかも知れません。「Forは等位接続詞」と言われて「は?」と思った人は、この間まで使っていた英文法書 を通読すると良いでしょう。 問 …英語力は語彙力!どの単語帳をやれば良い? 答 …本書では単語帳に関する言及がありません。明治時代にそんな物は無かったからでしょう。その代わりに本書では

『英語達人列伝』

英語はどの様に学んだら良いのか。 最近では第二言語習得論(SLA)の研究も盛んで、様々な学説が生み出され、共有されている。しかし、SLAはまだまだ北米、即ち英語母語話者による研究の割合が多いのだ。外国語は英語だけではないとは言っても、英語とそれ以外には社会的役割に絶望的な差がある。英語母語話者がSLAを使って効果的だと示そうとしている学習法が、日本人が英語を学ぶ際に最善の方法となるとは限らない。  英語学習法を研究する方法はSLAだけではない。結果から研究する、即ち、英語が出来る日本人を研究し、我々にとって有益な学習法を見出すという方法もある。事例研究(ケーススタディー)だ。本書はこの手法を採っている。  本書のまえがきにはこうある。 「どういうわけか、いままでの日本の英語教育は失敗から学ぼうとする傾向が強かった。文学の英語は役に立たないから時事英語をやろう、文法や訳読では駄目だったから今度はコミュニケーションだ、という試行錯誤ばかりを繰り返してきたのである。そしてその際に導入されるのは、多くの場合、日本の風土や言語文化を理解しない英米の学者が開発した学習法や評価法であった。」  では反対に成功から学ぼうというのが本書の趣旨である。 登場する英語達人は新渡戸稲造や鈴木大拙といった錚々たる面子だ。「いやいやこの人達は天才だから達人になれたんでしょ。凡人には関係ないよ」と思った貴方、確かにそれは部分的に正しいのだが、それを差し引いても色々な共通点があるので、是非とも読んで欲しい。 少なくとも、この本は読んでいて楽しい。小説が碌に読めず、実用書にしか興味が無い私自身が本書のエピソードを楽しく読んだのだから。  英語達人列伝と称していながらも、所々に著者がひょっこりと現れてくる。これがまた面白く、そして為になる。 本書の登場人物は皆日本人というアイデンティティを捨てずに(言い換えれば西洋に被れずに)英語の達人になっている。全体として、日本がまだ弱かった頃に真っ向から英米人(特に米人)に立ち向かったという内容が多く述べられており、読んでいてとても気分が良い。 但し、偏狭な国粋主義には陥らぬ様ご注意を。  例えば、岡倉天心の有名な逸話が載っている。 アメリカで若者に’What sort of ‘nese areyou people?