大学に入って気づいたことがある――私は本を読むのが下手だということである。
もちろん、本の文面が読めないというわけではない。しかし、その文面の奥にある筆者の思想がどのようなものか、そしてそれがいかに素晴らしいかといった問いに対して私は上手く答えることができないということを実感したのであった。
「どうすれば本を『上手く読む』ことができるのだろうか」——本書評誌サークルに所属している私にとって、これは死活問題であり、常に私の頭をもたげる問題であった。
また、これは多くの大学生が共有してくれる(と私は信じている)課題であろう。
そんな悩みを抱えていた私の前に、本書『本を読む本』が(本当に偶然だったが)現れたのであった。まさに「我が師を得たり」と言った感覚であった。
本書はいかに本を「読む」かという実践指南書である。ただし、筆者の想定する読書は「深い理解のための読書」である。つまり、筆者の言葉の奥にある思想を完全に理解して筆者の精神と自己の精神の和合を目指しつつ、同時に筆者の思想に質問を投げかけることで自己を啓発するような、そんな読書である。
平たく言えば、情報を得るための読書ではなく、むしろ筆者という一人の人間と対話するなかで知識を深めていく読書だといえよう。
そして、読書には積極的読書が必要であるというのが本書の中心命題となる。深い理解のためには、筆者の意図を読者が尋ねるようにしつつ、最後にはそれに対する自己の意見を述べなければ、筆者と対話したとは言えないというのである。
では、積極的読書に至るためにはどうすればよいのか。
本書の最も優れているところは、この積極的読書に達成する方法を細かく段階に分けて、仔細に説明してくれているところである。この手の「読書論」は「筆者の精神、考え方を理解するように読むべきだ」というような抽象論に留まることが多いように思われる。こういった方法論を見ると、「実際どうすればよいのか」がわからなくなるというジレンマに陥りがちである。
本書はその点をよく理解しており、読者がどの順番で何を行えばよいかを順序だてて教えてくれる。家電についてくるマニュアルのような細かさだが、さすが読書に精通している筆者である、細かいながらも、そこには具体例や比喩、エピソードを織り込みつつ話してくれるので、飽きずに読み進めることができた。
さて、その具体的な手順は皆さんが本書を読んで確かめていただくをして、ここでは筆者の論が至らなかった点である現代社会の各種メディアと読書論について考えてみたい。
筆者はその冒頭と末尾に現代のマスメディアや娯楽と人間の知識をめぐる現状を記述している。筆者が言うには、現代のマスメディアは簡単に「わかってしまう」がゆえに、受け手の主体性を必要とせず、ゆえに受け手の精神を委縮させてしまうとして、マスメディアとそこから発信される各種娯楽のマイナス面を論じ、それと対比させるように「良書」―つまり読者の知識をはるかに超えた見識深さを持つ本―を読むことの必要性を説く。確かに、現代の世の中において精神の鍛練のために「良書」を読む機会が奪われ、精神が委縮しているという批判は免れない。
しかし、我々は今やマスメディアからは逃れられないという現状も否定できないと私は考える。そこで必要となるのは、筆者の主張する「積極的読書」を換骨奪胎して、マスメディアなどに活かすことではないだろうか。
つまり、マスメディアで発信されている情報の奥にどのような人間像を見出すかが重要であろう。このような意味で、「積極的な情報受け手」となるかという現在のリテラシー能力につながる視点も与えてくれる本であるといえよう。
とにかく、新入生はもちろん、読書をいかに行うべきか、さらにはいかに情報を受け取るかということに悩んでいる人にこそ、「積極的に」読んでほしい一冊である。
(ユスケ)
出版社のサイトに飛びます:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150900
もちろん、本の文面が読めないというわけではない。しかし、その文面の奥にある筆者の思想がどのようなものか、そしてそれがいかに素晴らしいかといった問いに対して私は上手く答えることができないということを実感したのであった。
「どうすれば本を『上手く読む』ことができるのだろうか」——本書評誌サークルに所属している私にとって、これは死活問題であり、常に私の頭をもたげる問題であった。
また、これは多くの大学生が共有してくれる(と私は信じている)課題であろう。
そんな悩みを抱えていた私の前に、本書『本を読む本』が(本当に偶然だったが)現れたのであった。まさに「我が師を得たり」と言った感覚であった。
本書はいかに本を「読む」かという実践指南書である。ただし、筆者の想定する読書は「深い理解のための読書」である。つまり、筆者の言葉の奥にある思想を完全に理解して筆者の精神と自己の精神の和合を目指しつつ、同時に筆者の思想に質問を投げかけることで自己を啓発するような、そんな読書である。
平たく言えば、情報を得るための読書ではなく、むしろ筆者という一人の人間と対話するなかで知識を深めていく読書だといえよう。
そして、読書には積極的読書が必要であるというのが本書の中心命題となる。深い理解のためには、筆者の意図を読者が尋ねるようにしつつ、最後にはそれに対する自己の意見を述べなければ、筆者と対話したとは言えないというのである。
では、積極的読書に至るためにはどうすればよいのか。
本書の最も優れているところは、この積極的読書に達成する方法を細かく段階に分けて、仔細に説明してくれているところである。この手の「読書論」は「筆者の精神、考え方を理解するように読むべきだ」というような抽象論に留まることが多いように思われる。こういった方法論を見ると、「実際どうすればよいのか」がわからなくなるというジレンマに陥りがちである。
本書はその点をよく理解しており、読者がどの順番で何を行えばよいかを順序だてて教えてくれる。家電についてくるマニュアルのような細かさだが、さすが読書に精通している筆者である、細かいながらも、そこには具体例や比喩、エピソードを織り込みつつ話してくれるので、飽きずに読み進めることができた。
さて、その具体的な手順は皆さんが本書を読んで確かめていただくをして、ここでは筆者の論が至らなかった点である現代社会の各種メディアと読書論について考えてみたい。
筆者はその冒頭と末尾に現代のマスメディアや娯楽と人間の知識をめぐる現状を記述している。筆者が言うには、現代のマスメディアは簡単に「わかってしまう」がゆえに、受け手の主体性を必要とせず、ゆえに受け手の精神を委縮させてしまうとして、マスメディアとそこから発信される各種娯楽のマイナス面を論じ、それと対比させるように「良書」―つまり読者の知識をはるかに超えた見識深さを持つ本―を読むことの必要性を説く。確かに、現代の世の中において精神の鍛練のために「良書」を読む機会が奪われ、精神が委縮しているという批判は免れない。
しかし、我々は今やマスメディアからは逃れられないという現状も否定できないと私は考える。そこで必要となるのは、筆者の主張する「積極的読書」を換骨奪胎して、マスメディアなどに活かすことではないだろうか。
つまり、マスメディアで発信されている情報の奥にどのような人間像を見出すかが重要であろう。このような意味で、「積極的な情報受け手」となるかという現在のリテラシー能力につながる視点も与えてくれる本であるといえよう。
とにかく、新入生はもちろん、読書をいかに行うべきか、さらにはいかに情報を受け取るかということに悩んでいる人にこそ、「積極的に」読んでほしい一冊である。
(ユスケ)
出版社のサイトに飛びます:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150900
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