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『世紀末芸術』

十九世紀から現代に至るまでの美術史は、「イズムの交代」として記述されることが多い。

モネ、ルノワールら印象派という輝かしい一等星から始まる近代絵画の旅は、マティスやヴラマンクの活躍するフォーヴィズム(野獣派)、ピカソらによるキュビズム、未来派、エコールド・パリ、ダダイズム、シュルレアリスム、構成主義、抽象画などの星々を旅して、現代芸術へと続いている。

印象派から始まる、絵画の自律性を目指す輝かしい旅の歴史―

しかし、あま りに強い星々の輝きのせいで、我々はしばしば他の星々を見失ってしまう。

物理学の歴史を紐解いてみれば、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルト、マクスウェル、アインシュタインなどの科学者が偉大な科学者として教科書に名を連ねる中で、しかし同時に、彼らの偉大な発見の途中には、常にいくつもの学説(クーン風に言えば「パラダ イム」)が並び立ち、試行錯誤を続けてきた。彼らの「実験」は、今は間違っていた学説といえるが、それ抜きに物 理学の発展を語ることはできない。

輝かしい星々の間には、いくつもの星々がうごめいており、その中には見逃すことのできない星々がいくつもある。

今回紹介する本は、印象派の終わりから野獣派の始まりへ至る1882年から1907年の旅、その世紀末の二十年間の「空白」が、しかし、決して虚無などでなく、様々な試みが見られる「実験」の時代であり、現代芸術への重要な思想・技術が芽生えていた時代であったことを教えてくれる。そして、そうした多様さと緩やかな統合が、この世紀末絵画の特徴であると気づかされる。世紀末芸術は空間的にも技術的にも従来の芸術システム内部に存在していた境界を解体した。単にキャンバス画家だけでなく、壁画家、ポスター画家、写真家、さらには技術家や本の装丁家までもがヨーロッパ各地から集まり、中東やアフリカ、日本などのさまざまな地域の影響を受けながら新たな芸術を目指していく。そこでは従来の芸術の在り方は解体し、「統合芸術」への歩みを進めていく。

こうした発想は私にとって非常に新鮮なものであった。世紀末絵画というと、その名称や、ムンクやルドンの絵の幻想性も相まってどこか混沌とした感じがあった。しかしその混沌さこそが新たな芸術の動きなのだという考えは、非常に逆説的であり、同時に説得力のあるものである。そう考えると、現代芸術を考える上で世紀末芸術は決して見逃せないものである。

さらに、世紀末芸術の混沌さは取り留めのないものなのではなく、緩やかな統合を持っていることも本書は教えてくれる。世紀末芸術の背景、特徴、美学・思想を順を追って、簡潔に説明していく中で、十九世紀末の精神風土や科学技術の発展といった大きな動きのなかで世紀末芸術の動きが記述される。筆者の簡明かつ詳細な記述は、世紀末芸術が多様な側面を見せながら、一定の問題意識や知識を共有していた様子が見えてくる。そうした芸術の在り方は、現代芸術の在り方に重なる部分もあり、そういった点でも世紀末芸術が現代芸術を理解するための大きなカギを握っているとは思ってもみなかったことである。

世紀末芸術は理解しがたい混沌として表現されることが多い。しかし本書は、むしろそこに世紀末芸術の特徴があり、現代につながる芸術の動きを作り出したということを、世紀末芸術の様々な側面の記述から結論づける。そんなイズムではとらえきれない芸術の描写は、今まで見逃してきた芸術の在り方を教えてくれる。世紀末芸術、そして現代芸術の見方が変わる一冊である。

(木村友祐)

出版社のサイトに飛びます:https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480091581/

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