スキップしてメイン コンテンツに移動

『空の境界』

Fateシリーズ(共作)等で有名なシナリオライター・小説家、奈須きのこ。本作はその代表作である。

題名を知っているだけ、あるいはアニメ版を見ただけ、という方はそれなりに多いかもしれないが、原作をちゃんと読んだことがある人は、案外少ないのではないだろうか。だがそれでは勿体ない。小説としての本作が、アニメ化前に、既に世紀の変わり目に一世を風靡していたのには、しかるべき理由があるのだから。

二年間の昏睡から目覚めた少女・両儀式は、ある種の記憶喪失と引き換えに、生物から物体まで、あらゆるモノの死を視ることのできる〝直死の魔眼〟を手に入れていた。一見平凡な友人・黒桐幹也、その雇い主の魔術師・蒼崎橙子らと共に、一応の日常生活に復帰した式だったが、多発する幽霊の噂、謎めいた殺人事件など、周囲で不穏な出来事が起こり始める。それらが示すものとは。そして、式の昏睡の裏に在る真相とは――?

本作のジャンル分けは難しい。序盤の道具立ては推理小説的であるが、あらすじにもある通り魔術などのファンタジー的要素、それを理論的に裏付けるSF的要素も絡んでいる。ジャンルとしては当初「新伝奇」とされたが、ライトノベルに分類されることもあるようだ。

しかし、そんなことは些細なことである。そうしたジャンルに収まりきらない深遠なスケール、一種詩的な独特の雰囲気こそが、本作の特徴なのだから。

そんな本作の魅力は、何と言ってもキャラクター・世界観の格好良さである。まず主人公の両儀式からして凄い。端正な美貌ながら口調は男性的、服装はいつも着物だが冬にはその上から無頓着に革ジャンを羽織り、ナイフを巧みに操って怪異と対峙する……何とも設定盛りすぎなのだが、人物描写は丁寧で、実際に読むと違和感を感じることなく純粋に魅かれてしまう。他のキャラクターや設定にしても、要約されるとある種中二病じみてはいるのだが、綿密かつ論理的に組み上げられた世界観、そして人物を魅せる台詞回しには、そうした欠点を感じさせずに、読者を作品世界に引き込んでしまうパワーがある。ただ、もちろん相性の問題はあるので、人物が好みに合わなかったり、世界観に上手く入り込めなかったりする人には、そうした描写が冗長にしか感じられず、やや楽しみにくい作品となっているのは否定できない。

キャラクターと並んで際立っているのが、文章自体の切れの良さである。婉曲や比喩を駆使した繊細な文体でありながら、戦闘シーンでは一転してスピード感と緊迫感が演出され、かと思えばコメディタッチになったりもする。そうした、緩急を自在に操る筆致により、まるで映像を見ているかのような臨場感が実現されているのである。

ただ、その特性ゆえに、戦闘シーンでない通常の会話パート(特に、理論家である魔術師同士の対話)が難解で長大になるきらいがあるのは否めず、それを楽しめるかどうかは、やはり作者との相性の問題に帰してしまう気がする(弱気)。尤も普通に読む分には、冗長な部分も適度に読み流せば良いので、これがそこまで読みやすさを損なっているというわけではない。

更に、これまで述べた二つの魅力の裏では、巧みな構成や、本作の支柱を成す、式と黒桐の純粋で儚い恋愛関係などの様々な要素が組み合わさって、この作品独特の面白さを生み出している。例えば構成面では、敢えて時系列を分散・混在させることにより、複雑な伏線の配置と回収を可能としており、パズルのピースが少しずつ嵌っていくかのような感覚を生んでいる。…のだが、裏を返すと伏線が記憶し辛いというこ となので、一気に読み通すのがお薦めである。加えて、二回読むと思わぬ発見があったりもするので、個人的には読了後間を空けずに再読を推奨したい。

読者を選ぶ作品ではあるが、同人小説としての公開から約二十年を経た今でも、その魅力は全く衰えていない。今からでも遅くないので、ぜひ手に取っていただきたい小説である。

(区民)

出版社のページに飛びます:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000204606

コメント

このブログの人気の投稿

『ひろば』202号

コロナ禍対応のため201号に引き続き部員によって電子発行された202号。論題:「神話」では『サンティアゴ』『The Return of Santiago』『アメリカン・ゴッズ』、論題:「児童文学」では『獣の奏者』『ちいさなちいさな王様』『ニーベルンゲンの宝』『モモ』、論題:「感染症」では『治癒神イエスの誕生』『白い病』、「新刊寸評」では『四畳半タイムマシン・ブルース』『破局』を紹介しています。他にもエッセイや自由書評として『歴史の暮方』『民主主義は終わるのか』の書評も掲載。渾身の26頁となっています。

『ひろば』201号

  コロナ禍において紙媒体での配布が困難となり、自分たちの手で電子化した201号。 論題:「消滅」では『失われた町』『老いた大地の底で』『パラドックス13』『ミッドナイト・イン・パリ』、 論題:「近現代英国」では『〈英国紳士〉の生態学』『たいした問題じゃないが』『新しい十五匹のネズミのフライ』『ミス・ポター』『ベイカー街の女たち』『ハリー・ポッター』、 新刊寸評では『ツイスター・サイクロン・ランナウェイ』『難事件カフェ』、 自由書評では『熱源』『超必CHO-HI』『熱帯』、 これら書評に加えひろば民のエッセイも収録。 充実の26ページとなっています。

『〈英国紳士〉の生態学 ことばから暮らしまで』

一億総中流という言葉も久しく聞かなくなり、新たな格差社会を迎えたという現代日本。 しかし、格差が広がる現実に対して、日本人の”階級意識”というものは一向に復活する兆しが無いように見える。そんな階級を忘れた社会に暮らす読者の目には、本書に描き出される階級社会の姿はショッキングなものに映るかもしれない。  本書では、主に十九世紀から二十世紀における英国の”ロウアー・ミドル・クラス”と呼ばれる人々の社会的、文化的な表れが戯曲や小説などを通して分析されている。”ロウアー・ミドル・クラス”とは読んで字のごとく”中の下”の階級のことで、彼らこそ、我々が英国と聞いて思い浮かべるような<英国紳士>を目指して努力を重ねる悲喜劇的階級の人々なのだ。  彼らは十九世紀に近代化の過程で都市のホワイトカラーとして大きく数を増やした。その結果、上流階級や、彼らより一段上の”アッパー・ミドル・クラス”の嘲り、揶揄の対象とされるようになった。本書において、彼らに向けられた揶揄は驚くほど広い視点から分析される。例えば第一章では、戯曲における彼らへのバッシングが、ミドル・クラスの階級の中で彼らと自らを区別したい”アッパー・ミドル・クラス”が、劇場の観客として、大きな地位を占めるようになったことと結び付けられる。ここでの分析は、作品の中にあらわれる”ロウアー・ミドル・クラス”への嘲りだけでなく、資料に基づいた劇場という場の分析が基礎をなしている。このような作品の内外をも捉える広い視点に基づく分析が本書を特徴づけ、読者にとっての本書を先が予想できない、面白いものにしている。  本書では続いて”ロウアー・ミドル・クラス”を取り巻く「リスペクタビリティ」や「サバービア」といった語が俎上にのせられる。前者「リスペクタビリティ」という語は、礼儀正しさや清潔さをはじめとしたミドル・クラスの美徳を総称したもので、元来ミドル・クラス特有の物であったが、禁欲的なヴィクトリア女王の即位によって上流階級にも受け入れられた。しかし、時がたつにつれて反動がおこるようになり、「リスペクタビリティ」はミドル・クラス的なもの、反芸術的なものとして耽美主義の立場などから批判されるようになった。本書の著者はここで耽美主義の運動に対する興味深い解釈を提示する。経済的、文化的に力を増すミドル・クラスに対し、彼らが理