スキップしてメイン コンテンツに移動

『ほら男爵 現代の冒険』

皆さんは小中高と通うなかで夏休みの宿題であったりで「読書記録」的なことをやらされたことはないだろうか。

自分で読んだ作品名を書いて、ある程度感想を書いて、その合計作品を一定数以上にしなければ ならないというあれである。やったことがない人はごめんなさい。
個人的には、読む本は自分で決められるという点でまだ(そもそも本なんて好きに読めばいい、それを強制するから反発が生まれると個人的に は思う)良心的だと思っている。

そんな課題の救世主として有名なのが、皆さんもお世話になったことがあるかもしれない星新一である。ショートショート一話を一作品と見なせば、数ページで課題がアッとい うまに終わるのだ。 

前置きが長くなった。本書はそんなショートショートの名手、星新一によるコミカルな連作である。この書評を読んでいるような奇特な方であれば、何をいまさら星新一など通俗的なもの を、と思うかもしれない。もっと文学的なものを寄越せ、と。

そこで今回はそうした意見があると仮定したうえでそれに反論する形で進めていきたいと思う。 

そもそも本書はいったいどんな形式で進むかという話。

雑に言えばあのほら男爵の子孫がどう見ても嘘にしか思えない珍道中を繰り広げるも、その出自から誰も信じてくれないという流れがある。

言い換えれば、ほら男爵のパロディとして舞台を設定すること で労せずして物語を回せるような仕組みが出来上がっているのだ。そうした下準備にも敬服だが、そうした流れの中で、本書のいいところがどう表れているのか、見ていきたい。 

まず第一に、そもそもなぜ通 俗的であってはいけないのか。大衆受けするということはそれ自体、「面白いこと」の確約ではないのか。

確かに精進料理のように滋養にあふれた書というのは世間に存在していて、そうしたものを見つけると いうのは何よりも好ましいところである。しかし何も滋養のあるものに限らず、日々の生活の中では箸休めとして気軽に読めるものも必要であろう。

その中では、本書は特に引っかかることもなく万人が気安く 読めるという点で間食のようなやさしさがある。しかも、その中に明確な筆力、経験が裏打ちされているのだから、スナックのような、薄っぺらい感覚ではなく、和菓子の上質なそれと同じように楽しめるので ある。要するに、万人受けするfunnyさがあるのだ。 

そして第二に、きちんとinterestingの要素も含めている、そこが本書のポイントである。

通俗的という言葉の裏には、子供向け、つまり本質的な所に触れ ていない、娯楽だけを追い求めている、といった知識人的立場からの上から目線、丁寧に言うなら批判が隠れているように思える。

だが、本書は上っ面の面白さだけで成立しているのではなく、よみこむことに よって物語内に一貫して底流する現代文明への皮肉が見えてくるのである。

もっともセンセーショナルな例を挙げるとすれば、隠居して未開のジャングルの酋長となったヒトラーが登場する(星新一作品にはそ もそも固有名詞が出てくること自体珍しい)、であったりが挙げられるが、そもそもヒトラーを“いい人”扱いする作品というのは類を見ず、その点でチャレンジングな作品ともとれるし、もしくは罪を個人に 帰着することでかえってナチズムであったりといった歪みを生み出した近現代社会に対する風刺と捉えることもできるだろう。 

ということで何が言いたいかというと(イデオロギー的な例を持ってきてしまっ たことで諸兄が一歩引いてしまわないように心から願うが)、本書というのは純粋に娯楽として消費してしまうこともできるし、そのうえで余力があればいくらでも深堀り出来るという特徴を備えた稀有な作品 であるということだ。

正直、他作品と比べて本書の知名度は高いわけではないが、この機会に手に取ってもらえると楽しいかもしれない。子供向けだからと言って軽んじること勿れ。

(ちくあん)

出版社のサイトに飛びます:https://www.shinchosha.co.jp/book/109804/

コメント

このブログの人気の投稿

『ひろば』201号

  コロナ禍において紙媒体での配布が困難となり、自分たちの手で電子化した201号。 論題:「消滅」では『失われた町』『老いた大地の底で』『パラドックス13』『ミッドナイト・イン・パリ』、 論題:「近現代英国」では『〈英国紳士〉の生態学』『たいした問題じゃないが』『新しい十五匹のネズミのフライ』『ミス・ポター』『ベイカー街の女たち』『ハリー・ポッター』、 新刊寸評では『ツイスター・サイクロン・ランナウェイ』『難事件カフェ』、 自由書評では『熱源』『超必CHO-HI』『熱帯』、 これら書評に加えひろば民のエッセイも収録。 充実の26ページとなっています。

『ひろば』202号

コロナ禍対応のため201号に引き続き部員によって電子発行された202号。論題:「神話」では『サンティアゴ』『The Return of Santiago』『アメリカン・ゴッズ』、論題:「児童文学」では『獣の奏者』『ちいさなちいさな王様』『ニーベルンゲンの宝』『モモ』、論題:「感染症」では『治癒神イエスの誕生』『白い病』、「新刊寸評」では『四畳半タイムマシン・ブルース』『破局』を紹介しています。他にもエッセイや自由書評として『歴史の暮方』『民主主義は終わるのか』の書評も掲載。渾身の26頁となっています。

『新しい十五匹のネズミのフライ ―ジョン・H・ワトソンの冒険』

英国紳士 の代表格にして名探偵の代名詞、シャーロック・ホームズ。  その独特な魅力ゆえに、既に本家ホームズ譚の連載中から、世の中ではこの探偵をもとにした数多くのパロディやパスティーシュ(=真面目寄りのパロディ)が書かれてきた。  作者は日本ミステリ界を代表する作家の一人である島田荘司氏。実は島田氏は既に、英国留学中の夏目漱石とホームズの出会いを描いた傑作パスティーシュ『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を著している。そうした経緯を知る人にとっては、本作はまさしく期待の一作……なのだが、実は『倫敦ミイラ殺人事件』と本作では、同じパロディ作品と言えどもかなり毛色が異なっており、それゆえに本作は手放しではお勧めできない作品となっている。  『倫敦ミイラ殺人事件』はそもそも、漱石&ホームズという、想像するだに面白い組み合わせをメインアイデアとしていて、ホームズにも漱石にも詳しくない読者でも楽しく読める基盤があった。もちろん、ホームズや漱石に詳しければニヤリとくる描写はそこここにあるのだが、それはおまけ程度にすぎず、話の理解自体には関わってこなかったのだ。  ところが本作は、打って変わって本格的なホームズ・パスティーシュだ。帯に「『赤毛組合』事件は未解決だった!?」と書かれている通り、物語自体の骨格も本家ホームズ作品(所謂「聖典」)をかなりの部分下敷きにしている。そのため、「ホームズの名前だけは知っている」「数作なら読んだことがある」という程度では、ストーリーの面白さを十分に楽しむことができないのだ。例えば冒頭で仄めかされる「ジェイベズ・ウィルスンとメリウェザー氏はグルだった」という事実にしても、聖典を知っていれば「ええ!?」となるのだが、詳しくない人は首をひねるばかりだろう(実際に今そうなっている人も多いはずだ)。これが冒頭に述べた、本作をあまり手放しで推薦できない理由の主なものである。  もちろんこれは、本作が駄作であるという意味ではない。パスティーシュとして見たときには本作は非常に巧く作られた作品であり、プロット自体も普通の小説と比べて遜色ない完成度と緩急を誇る。思わず「そうきたか!」と唸ってしまうような、優れた、かつ愉しい遊びに満ちた作品なのである。また、どうしても理解が必要な聖典の内容については、本文中で語り直されてもいる。そういうことなら別にホーム...