スキップしてメイン コンテンツに移動

『ヴァリアント・エクスペリメント』

「冒険」の定義とは何だろうか。
辞書を引くと、危「険」を「冒」すことだとある。

現在はそこから意味が拡大して、危険を伴うような旅や計画を指すこともあるが、文字通りの意味で言えば、この作品は大いに〝冒険〟小説と言えるかもしれない。何しろ、主人公はほぼ常時、命の危険に身を晒しているのだから。 

ある地方都市で何でも屋を営む女性・は、ある特殊な能力を持つ《異能者》(ヴァ リアント)であった。ある日、彼女が公園で暇を潰していると、喋る黒猫に助けを求められる。猫を追っていたのは《異能者》。式条 は初めて同類と出会えたことに昂揚しつつ追っ手を撃退し、猫に導かれるままに「異能実験」という名のバトルロイヤルが行われるという島へ向かう。バトルの手掛かりとなるのは発信機の埋め込まれた各自のカード(集めるほど賞金が増える)と、黒猫を含む使い魔たちの感知能力のみ。一癖も二癖もある《異能者》同士の命がけのバトルの行く末は……? 

以上のあらすじを読んでもらって分かったと思うが、本作のあらすじを語ることにさしたる意味は無い。異能者が出てくる、戦う、倒す。「異能バトル小説」という形式を思いきり単純化したような図式なのだが、寧ろこの作品の場合、そうだからこそ何も考えずに純粋に楽しめるのだ。

ステレオタイプというものはしばしば「n番煎じ」などと批判されるが、それが本質的に面白いからこそ、様々な作品で使いまわされてゆくのである。

かっこいいおねーさんが戦う! 活躍する! 蹂躙する! これが面白くないはずがない!

……なんだか物凄く少人数に向けたプレゼンにな ってしまったので、頑張って軌道修正を図ろう。 

本作の魅力は、無軌道に見えつつも実は裏でちゃんと展開しているストーリーとか、ありきたりなようで微妙にクセのある《異能》やそれを操るキャラクターたちとか、サブヒロインの芦屋悠里が可愛いとか細かい部分で色々存在するのだが、やはり特筆すべきは主人公・式条丹の特異性である。 

バトルロイヤルものではふつう、多彩な参加者のうちだれが生き残るのか、という、緊迫感あふれる駆け引きが魅力となるものであろう。あるいは、主人公がいる場合には、その正義が問題となることもある。

しかし本作にはそのどちらもない。この文の冒頭で本作の主人公=式条は常に命の危険に晒されていると書いたが、それはあくまで客観的視点での話だ。彼女の異能の詳細が読者には不明(どの異能者も、デフォルトの驚異的身体能力+1個の 何らかの能力を持つ)であるゆえに、読者側の緊迫感は多少あるのだが、彼女自身は、どんな敵を前にしても常に余裕の構えを崩さない。しかも彼女は、正義を掲げてすらいないのだ。自分の邪魔になるから、倒す。気に入ったから救う。

そんな調子で、様々な正義や思想を持つ他の参加者を翻弄し、蹂躙していく様は、悪役というよりももはや天災というのがふさわしい。

そんな奴が主人公の小説の何が面白いんだ、といわれるかもしれないが、通常の倫理や正義観を華麗に轢き潰してゆく様は、途中から奇妙に爽快感がある。そこで読者に不快感や違和感を(最終的には)抱かせないのは、ひとえに式条の描かれ方、キャラクター的魅力によるものが大きいだろう。まぁ実際、別に自分の邪魔にならない相手には普通に優しい人物だ。ギャップ萌え……では、無いと思うが。 

ともあれ、本作を読む際には、そんな難しいことは考えずに読むのが良いだろう。次はどんな敵が出てきて、どんな戦いがあるんだ? と、ただ勢いで読み 進めるのに向いた、あるいはそのために書かれた小説である。

人が「冒険」を求めるのは、ひとつには危険と表裏一体の爽快感にあるのだから。

(区民)

出版社のサイトに飛びます:http://www.chuko.co.jp/ebook/2015/05/515405.html

コメント

このブログの人気の投稿

『ひろば』202号

コロナ禍対応のため201号に引き続き部員によって電子発行された202号。論題:「神話」では『サンティアゴ』『The Return of Santiago』『アメリカン・ゴッズ』、論題:「児童文学」では『獣の奏者』『ちいさなちいさな王様』『ニーベルンゲンの宝』『モモ』、論題:「感染症」では『治癒神イエスの誕生』『白い病』、「新刊寸評」では『四畳半タイムマシン・ブルース』『破局』を紹介しています。他にもエッセイや自由書評として『歴史の暮方』『民主主義は終わるのか』の書評も掲載。渾身の26頁となっています。

『ひろば』201号

  コロナ禍において紙媒体での配布が困難となり、自分たちの手で電子化した201号。 論題:「消滅」では『失われた町』『老いた大地の底で』『パラドックス13』『ミッドナイト・イン・パリ』、 論題:「近現代英国」では『〈英国紳士〉の生態学』『たいした問題じゃないが』『新しい十五匹のネズミのフライ』『ミス・ポター』『ベイカー街の女たち』『ハリー・ポッター』、 新刊寸評では『ツイスター・サイクロン・ランナウェイ』『難事件カフェ』、 自由書評では『熱源』『超必CHO-HI』『熱帯』、 これら書評に加えひろば民のエッセイも収録。 充実の26ページとなっています。

『〈英国紳士〉の生態学 ことばから暮らしまで』

一億総中流という言葉も久しく聞かなくなり、新たな格差社会を迎えたという現代日本。 しかし、格差が広がる現実に対して、日本人の”階級意識”というものは一向に復活する兆しが無いように見える。そんな階級を忘れた社会に暮らす読者の目には、本書に描き出される階級社会の姿はショッキングなものに映るかもしれない。  本書では、主に十九世紀から二十世紀における英国の”ロウアー・ミドル・クラス”と呼ばれる人々の社会的、文化的な表れが戯曲や小説などを通して分析されている。”ロウアー・ミドル・クラス”とは読んで字のごとく”中の下”の階級のことで、彼らこそ、我々が英国と聞いて思い浮かべるような<英国紳士>を目指して努力を重ねる悲喜劇的階級の人々なのだ。  彼らは十九世紀に近代化の過程で都市のホワイトカラーとして大きく数を増やした。その結果、上流階級や、彼らより一段上の”アッパー・ミドル・クラス”の嘲り、揶揄の対象とされるようになった。本書において、彼らに向けられた揶揄は驚くほど広い視点から分析される。例えば第一章では、戯曲における彼らへのバッシングが、ミドル・クラスの階級の中で彼らと自らを区別したい”アッパー・ミドル・クラス”が、劇場の観客として、大きな地位を占めるようになったことと結び付けられる。ここでの分析は、作品の中にあらわれる”ロウアー・ミドル・クラス”への嘲りだけでなく、資料に基づいた劇場という場の分析が基礎をなしている。このような作品の内外をも捉える広い視点に基づく分析が本書を特徴づけ、読者にとっての本書を先が予想できない、面白いものにしている。  本書では続いて”ロウアー・ミドル・クラス”を取り巻く「リスペクタビリティ」や「サバービア」といった語が俎上にのせられる。前者「リスペクタビリティ」という語は、礼儀正しさや清潔さをはじめとしたミドル・クラスの美徳を総称したもので、元来ミドル・クラス特有の物であったが、禁欲的なヴィクトリア女王の即位によって上流階級にも受け入れられた。しかし、時がたつにつれて反動がおこるようになり、「リスペクタビリティ」はミドル・クラス的なもの、反芸術的なものとして耽美主義の立場などから批判されるようになった。本書の著者はここで耽美主義の運動に対する興味深い解釈を提示する。経済的、文化的に力を増すミドル・クラスに対し、彼らが理