「現代アート」と聞くと、どうも尻込みしてしまう。例えばどこにでもありそうな男性便器―有名なマルセル・デュシャンの作品≪泉≫のことであるが―を見せられて「これはアートである」と言われても、正直私には理解できない。あるいは渋谷駅を降りれば目に入る、壁に描かれた巨大な絵画—渋谷駅にある岡本太郎作≪明日の神話≫のことであるが―はなにか意味ありげな雰囲気があるが、正直理解に困る。これは「アート」なのか、それとももっと別の何かなのか―現代アートと言われる作品を見るたびに心に疑問が残り続ける。しかし、それこそまさに現代アートの狙うところであり、かつそうした疑問を投げかけるからこそ現代アートなのだということを、本書を読んで私なりに理解した。
本書は芸術という概念そのものの多様化に加えて、メディアの発達によってそのジャンルが多様化し、多元化し、明確な定義を下すことが難しい「現代美術」(modern art)を「社会と美術」という視点から描き出そうとする。但し本書において「社会」と「美術」は二元的に理解されるものではない。むしろ、芸術と社会は常にその境界を曖昧にしながら、相互に作用しながら発展していくという視点で「現代美術」は描かれていく。
本書を貫くもう一つの視点として「トランスナショナリズム」、つまり国家間での越境性があげられている。我々が美術・芸術を想像する際、往々にして西洋絵画を思い浮かべるし、アカデミックな領域でも西洋は中心的であった。しかし、現代美術においては国家を越境しながら様々な作品が作られていることを本章は描き出す。そこから、西洋中心の美術観を批判するだけでなく、国民国家と絵画の関係について問い直す面も有している。
このような点から、本書はポスト・モダニズム的視点が強い。つまり、近代システムによって構築され、またそれを再構築してしまっていたアートというシステムの自律性を現代アートが問い、社会とアートの関係性を再構築していこうというする様子が、現代アートの歴史を見る中で描かれていく。そして同時に、現代アートは個人に埋没しがちな現代社会において、個人と社会がアートを通じてつながる可能性を見せてくれる。その点を考えれば、本書を通じて描かれる現代アートはモダンを批判するとともに、ポスト・モダンでの社会と個人がどうかかわっていけるか、その可能性を提示してくれているといってもよいだろう。
本書の最後で筆者が再び述べるように、現代美術はその多元性ゆえに説明しきることができない。むしろ、その多元性にこそ現代美術の本質があり、「なぜこれがアートなのか、「なにをアートとみなすか」と問うことで社会を再考し、他者との関係性を組み直すことがその本質の現れである。ゆえに筆者が述べるように、実際に現代アートを見にいこう。そして「アートとは何か」、そう問われる中で、「アートとは何であり、何であるべきか」を問い返すプロセスを経ることこそが最も重要なのであり、筆者が我々に求めることなのであろう。
(ユスケ)
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