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『〈英国紳士〉の生態学 ことばから暮らしまで』

一億総中流という言葉も久しく聞かなくなり、新たな格差社会を迎えたという現代日本。

しかし、格差が広がる現実に対して、日本人の”階級意識”というものは一向に復活する兆しが無いように見える。そんな階級を忘れた社会に暮らす読者の目には、本書に描き出される階級社会の姿はショッキングなものに映るかもしれない。 

本書では、主に十九世紀から二十世紀における英国の”ロウアー・ミドル・クラス”と呼ばれる人々の社会的、文化的な表れが戯曲や小説などを通して分析されている。”ロウアー・ミドル・クラス”とは読んで字のごとく”中の下”の階級のことで、彼らこそ、我々が英国と聞いて思い浮かべるような<英国紳士>を目指して努力を重ねる悲喜劇的階級の人々なのだ。 

彼らは十九世紀に近代化の過程で都市のホワイトカラーとして大きく数を増やした。その結果、上流階級や、彼らより一段上の”アッパー・ミドル・クラス”の嘲り、揶揄の対象とされるようになった。本書において、彼らに向けられた揶揄は驚くほど広い視点から分析される。例えば第一章では、戯曲における彼らへのバッシングが、ミドル・クラスの階級の中で彼らと自らを区別したい”アッパー・ミドル・クラス”が、劇場の観客として、大きな地位を占めるようになったことと結び付けられる。ここでの分析は、作品の中にあらわれる”ロウアー・ミドル・クラス”への嘲りだけでなく、資料に基づいた劇場という場の分析が基礎をなしている。このような作品の内外をも捉える広い視点に基づく分析が本書を特徴づけ、読者にとっての本書を先が予想できない、面白いものにしている。 

本書では続いて”ロウアー・ミドル・クラス”を取り巻く「リスペクタビリティ」や「サバービア」といった語が俎上にのせられる。前者「リスペクタビリティ」という語は、礼儀正しさや清潔さをはじめとしたミドル・クラスの美徳を総称したもので、元来ミドル・クラス特有の物であったが、禁欲的なヴィクトリア女王の即位によって上流階級にも受け入れられた。しかし、時がたつにつれて反動がおこるようになり、「リスペクタビリティ」はミドル・クラス的なもの、反芸術的なものとして耽美主義の立場などから批判されるようになった。本書の著者はここで耽美主義の運動に対する興味深い解釈を提示する。経済的、文化的に力を増すミドル・クラスに対し、彼らが理解できないことを行って文化的に締め出そうとした運動が耽美主義であるというものだ。この解釈は一見突飛なものに見えるが、芸術のための芸術というモットーやそれに基づく芸術の無用性の強調といった耽美主義の特徴を思い返すと納得できるものだ。そのため、この解釈は我々の持っている文化史的な発想を塗り替えるに足る解釈といえるだろう。 

先程あげた「サバービア」という語は郊外を意味する単語で、ミドル・クラスと結びついてマイナスなイメージがあるという。ミドル・クラスとのつながりの中で、「サバービア」は健康的、家庭的イメージを得ながらも、悪趣味なものとして軽蔑された。本書で描かれるこうした郊外の姿は従来描かれてきた日本文学における郊外のイメージと対極的といえる。イギリスのロンドンと同じく日本では東京でスプロール化が進行し、夏目漱石が「どこまで行ても東京がなくならない」と書いた通りの大都市へと発展した。そうして生まれた郊外はイギリスで見られる家庭的安心や健康さとは異質の犯罪性や怪奇的な雰囲気の漂う空間として描かれてきた。このような書評を書くと誤解が生まれそうなので一言断らせてもらうが、本書ではイギリスのことしか描かれてはいない。しかし日本の例と比較して読み進めることで、社会的には似た現象でありながら、文化的には極端な違いが生まれる不思議さを楽しみながら読むことができるほか、日英双方の事情をよりよく理解する助けになると思われる。 

本書を読むことは、これまで文学をあくまで芸術的な枠組みの中だけでとらえてきた人にとって、社会と文学の関係にまで視野を広げるための最善の方法であり、それとともに、社会的なものに興味を多く持つ人にとっても文学の楽しみを知る入口として最適である。本書は取っ付きやすく、かつ内容にも優れたところのある良書と言えるだろう。

(紅塵)

出版社のページに飛びます:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000328384

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