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『性のアナーキー』


「世紀末」―全てが闇に包まれて、終焉を迎える、そのような「終わり」のイメージがこの言葉にはつきまとう。実際は単なる世紀の変わり目に過ぎないのだが。しかし笑って見過ごせるものではない。実際に世紀末には様々な問題や分断が生じて、次の新たな世紀を迎える恐怖や不安を掻き立ててきた。例えば20世紀の終わりには、テロの危機、地球温暖化、経済システムの危機など様々な問題が顕在化していた。かのノストラダムスの「1999年に世界は滅びる」という大予言がにわかに信じがたい予言であるにも関わらず、あそこまで多くの人に信じられていたのも、事実世紀末に多くの人が世界の危機を感じていたからだろう。


そして、それは20世紀に限らない。実は19世紀末も同様に様々な危機が生じていた。そしてそれは特に生に関する対立や分断、つまり性に関する境界をめぐる闘争として生じていた。例えば男対女、ホモセクシャル対ヘテロセクシャル、梅毒患者対非感染者など、様々な人々が様々な闘争を繰り広げてきた。同時に、その境界はゆらぎ、時には異なる闘争が密接なかかわりを持つこともあった。そして20世紀も先程挙げた問題構造は、フェミニズム・セクシャルマイノリティー・HIVなど形を変えながらも残っている。


本書は世紀末におけるこのように複雑に入り組んだせいに関する境界戦を可視化していく。そのために本書が取り上げるのは英米の文学、芸術、演劇である。これらの作品のなかで性の危機や黙示録に関するイメージがどのように表象されているかを見ていくことで、当時の性に関する人々や社会の見解を明らかにする、そうした表象文化的研究が行われていく。


本書のなかでは様々な芸術作品が扱われるが、そこから当時の性に関するイメージを掬い上げ、当時人々の間にあった境界を再現するとともに、19世紀と20世紀の世紀末がいかに対応しているかを筆者は示す。そのイメージの理解は鮮やかであり、目を見張るものがある。


例えば8章と9章ではサロメの女という19世紀の英米文学、および絵画・演劇で人気を博したテーマが取り上げられる。このサロメは元々聖書に描かれた女性なのであるが、19世紀になると、モローの≪ヘロデ王の前で踊るサロメ≫を初めとして、ヴェールをかぶって優雅かつ力強く舞い、男を惑わせる存在「ファム・ファタル(運命の女)」として描かれるようになった。このイメージの流行の背景として、当時の女性の政治進出に伴う男性からの恐怖、及び「ヴェールつまり隠された秘密を男性である医学や科学が発見する」というパターナリズム的な科学・医学観がそこには表象されているという。


他にも様々な作品が取り上げられるが、そのイメージが当時の社会とどのように結びつき、世紀末観を映し出すかを筆者が解き明かしていくプロセスには、どこかミステリー小説的要素が入っている。世紀末と性という生々しくも興味深い内容から、表象文化論の一端に触れることができる作品である。

(ユスケ)

出版社のページに飛びます:https://www.msz.co.jp/book/detail/04518.html

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