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『新しい十五匹のネズミのフライ ―ジョン・H・ワトソンの冒険』

英国紳士 の代表格にして名探偵の代名詞、シャーロック・ホームズ。  その独特な魅力ゆえに、既に本家ホームズ譚の連載中から、世の中ではこの探偵をもとにした数多くのパロディやパスティーシュ(=真面目寄りのパロディ)が書かれてきた。

 作者は日本ミステリ界を代表する作家の一人である島田荘司氏。実は島田氏は既に、英国留学中の夏目漱石とホームズの出会いを描いた傑作パスティーシュ『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を著している。そうした経緯を知る人にとっては、本作はまさしく期待の一作……なのだが、実は『倫敦ミイラ殺人事件』と本作では、同じパロディ作品と言えどもかなり毛色が異なっており、それゆえに本作は手放しではお勧めできない作品となっている。

 『倫敦ミイラ殺人事件』はそもそも、漱石&ホームズという、想像するだに面白い組み合わせをメインアイデアとしていて、ホームズにも漱石にも詳しくない読者でも楽しく読める基盤があった。もちろん、ホームズや漱石に詳しければニヤリとくる描写はそこここにあるのだが、それはおまけ程度にすぎず、話の理解自体には関わってこなかったのだ。

 ところが本作は、打って変わって本格的なホームズ・パスティーシュだ。帯に「『赤毛組合』事件は未解決だった!?」と書かれている通り、物語自体の骨格も本家ホームズ作品(所謂「聖典」)をかなりの部分下敷きにしている。そのため、「ホームズの名前だけは知っている」「数作なら読んだことがある」という程度では、ストーリーの面白さを十分に楽しむことができないのだ。例えば冒頭で仄めかされる「ジェイベズ・ウィルスンとメリウェザー氏はグルだった」という事実にしても、聖典を知っていれば「ええ!?」となるのだが、詳しくない人は首をひねるばかりだろう(実際に今そうなっている人も多いはずだ)。これが冒頭に述べた、本作をあまり手放しで推薦できない理由の主なものである。

 もちろんこれは、本作が駄作であるという意味ではない。パスティーシュとして見たときには本作は非常に巧く作られた作品であり、プロット自体も普通の小説と比べて遜色ない完成度と緩急を誇る。思わず「そうきたか!」と唸ってしまうような、優れた、かつ愉しい遊びに満ちた作品なのである。また、どうしても理解が必要な聖典の内容については、本文中で語り直されてもいる。そういうことなら別にホームズを知らなくても楽しめるじゃないか、さっきの話と違うぞ、という声が聞こえてきそうだ。それは正論である。しかし、普通に読んでも"まぁまぁ"読める作品だからこそ、先に聖典を全作読み通して、”存分に”楽しんで欲しい、と言いたくなってしまうのだ。……だがそれは非常に労力の要ることなので、そういう意味で、本作は何とも、このような場ではお勧めしづらい作品となってしまっている。何とも悔しいところである。

 もしあなたがシャーロッキアンなら、迷うことはない。今すぐ読んで損はないだろう。もしそうでないなら、時間との相談だ。シャーロック・ホームズ物語は面白い物語だし、資料的価値も大きいので(読んでおくだけで何百という既存のパスティーシュが楽しめるようになるのだから、コスパは最高と言っていい)、十分な時間があるのならぜひ読んでもらいたい。そのうえで本作を読み始めれば、本作の魅力を余す所なく楽しむことができると思う。

(区民)
・島田荘司『新しい十五匹のネズミのフライ ―ジョン・H・ワトソンの冒険』新潮社
・良くも悪くも「正統派」ホームズ・パスティーシュ。

出版社のページに飛びます:https://www.shinchosha.co.jp/book/103315/

コメント

  1. ひろばOBです! ブログの新体制になり更新頻度も多く、楽しみに読ませていただいております。200の大台を突破した夏号もフルカラーで隔世の感でした。記事も充実されてますね。

    COVID-19でサークル活動もなかなか大変だと思いますが、頑張ってくださいね!
    (地獄の)100時間読書も再開されるようで大変嬉しく思います。100時間読書レポート、楽しみにしてます〜!
    (ポイント制度は少し改善してやってみたほうがいいと思います…。100時間読書現行システム最後の経験者より。)

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