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『ひろば』202号

コロナ禍対応のため201号に引き続き部員によって電子発行された202号。論題:「神話」では『サンティアゴ』『The Return of Santiago』『アメリカン・ゴッズ』、論題:「児童文学」では『獣の奏者』『ちいさなちいさな王様』『ニーベルンゲンの宝』『モモ』、論題:「感染症」では『治癒神イエスの誕生』『白い病』、「新刊寸評」では『四畳半タイムマシン・ブルース』『破局』を紹介しています。他にもエッセイや自由書評として『歴史の暮方』『民主主義は終わるのか』の書評も掲載。渾身の26頁となっています。
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『ひろば』201号

  コロナ禍において紙媒体での配布が困難となり、自分たちの手で電子化した201号。 論題:「消滅」では『失われた町』『老いた大地の底で』『パラドックス13』『ミッドナイト・イン・パリ』、 論題:「近現代英国」では『〈英国紳士〉の生態学』『たいした問題じゃないが』『新しい十五匹のネズミのフライ』『ミス・ポター』『ベイカー街の女たち』『ハリー・ポッター』、 新刊寸評では『ツイスター・サイクロン・ランナウェイ』『難事件カフェ』、 自由書評では『熱源』『超必CHO-HI』『熱帯』、 これら書評に加えひろば民のエッセイも収録。 充実の26ページとなっています。

『新しい十五匹のネズミのフライ ―ジョン・H・ワトソンの冒険』

英国紳士 の代表格にして名探偵の代名詞、シャーロック・ホームズ。  その独特な魅力ゆえに、既に本家ホームズ譚の連載中から、世の中ではこの探偵をもとにした数多くのパロディやパスティーシュ(=真面目寄りのパロディ)が書かれてきた。  作者は日本ミステリ界を代表する作家の一人である島田荘司氏。実は島田氏は既に、英国留学中の夏目漱石とホームズの出会いを描いた傑作パスティーシュ『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を著している。そうした経緯を知る人にとっては、本作はまさしく期待の一作……なのだが、実は『倫敦ミイラ殺人事件』と本作では、同じパロディ作品と言えどもかなり毛色が異なっており、それゆえに本作は手放しではお勧めできない作品となっている。  『倫敦ミイラ殺人事件』はそもそも、漱石&ホームズという、想像するだに面白い組み合わせをメインアイデアとしていて、ホームズにも漱石にも詳しくない読者でも楽しく読める基盤があった。もちろん、ホームズや漱石に詳しければニヤリとくる描写はそこここにあるのだが、それはおまけ程度にすぎず、話の理解自体には関わってこなかったのだ。  ところが本作は、打って変わって本格的なホームズ・パスティーシュだ。帯に「『赤毛組合』事件は未解決だった!?」と書かれている通り、物語自体の骨格も本家ホームズ作品(所謂「聖典」)をかなりの部分下敷きにしている。そのため、「ホームズの名前だけは知っている」「数作なら読んだことがある」という程度では、ストーリーの面白さを十分に楽しむことができないのだ。例えば冒頭で仄めかされる「ジェイベズ・ウィルスンとメリウェザー氏はグルだった」という事実にしても、聖典を知っていれば「ええ!?」となるのだが、詳しくない人は首をひねるばかりだろう(実際に今そうなっている人も多いはずだ)。これが冒頭に述べた、本作をあまり手放しで推薦できない理由の主なものである。  もちろんこれは、本作が駄作であるという意味ではない。パスティーシュとして見たときには本作は非常に巧く作られた作品であり、プロット自体も普通の小説と比べて遜色ない完成度と緩急を誇る。思わず「そうきたか!」と唸ってしまうような、優れた、かつ愉しい遊びに満ちた作品なのである。また、どうしても理解が必要な聖典の内容については、本文中で語り直されてもいる。そういうことなら別にホームズを知ら

『大した問題じゃないが』

書店でこの本を手に取ったのは、タイトルに目を引かれたからである。 『大した問題じゃないが』 そうか、大した問題じゃないのか。周りの本が、抽象的な表現で大仰な肩書を背負っているのに対して、あまりに控えめなタイトルである。僕は、しばしば本の宣伝文句として使われる、内容とかけ離れた大風呂敷にうんざりしていたので、この本には親しみを覚えた。何せ、『最強の~』とか書かれた本に、最強であった試しはないのである。(この文は不適切なら削除して構わない。体裁は大事だ。) しかし同時に、大した問題じゃないならどうして本を書くのだ、という疑問も沸いた。問題にすべきことがあるから、本を書くのだろうに。つまらないものですが、と言って手土産を送るのとはわけが違う。読む価値がないと、自分で宣伝しているに等しい行為ではないか。 しかしながら、この、あまりに挑発的なタイトルという試みは、僕の場合については成功を収めたようである。むずむずした気持ちを抑えきれずに、買ってきてしまった。定価660円。今日一日の精神安定のためには、少し高い値段ではあった。 さて、肝心の内容であるが、20世紀イギリスの傑作コラムを選抜したものである。各コラムは数ページ程度で、あまり長編を読む体力のない人にもお勧めできる。訳もこなれていて、少なくとも訳のために引っかかるようなことはないはずである。 ところで、最初の問題に答えねばなるまい。タイトルのことである。問題にすべきことはあったのか?結論としては、ない。ただ、これをもって読む価値がないと断定するのは浅はかな考えであることを気づかされた。もとより見ようとしないことと、じっくり検討したうえで問題にならないと笑い飛ばしてやるのは、まったく質の異なる話である。たしかに、大した問題ではない。命を懸けた大冒険のストーリーが語られることはないし、権力闘争に狂ったスコットランド王の苦悩を描くこともない。なんなら、話題にされている中で一番大きいものは、動物園のゾウかもしれない。だが、普段我々の日常の中に埋没していってしまうような「大した問題にならない」ことを、卓越した感性で浮き彫りにし、豊かな教養で調理してくれる文章の数々は、実に痛快で、読んでいて気持ちがいい。ジョークも気が利いていて、普段光が当たらない生活の側面に光を当て、そしてクスリと笑えるようなエッセイが満載

『〈英国紳士〉の生態学 ことばから暮らしまで』

一億総中流という言葉も久しく聞かなくなり、新たな格差社会を迎えたという現代日本。 しかし、格差が広がる現実に対して、日本人の”階級意識”というものは一向に復活する兆しが無いように見える。そんな階級を忘れた社会に暮らす読者の目には、本書に描き出される階級社会の姿はショッキングなものに映るかもしれない。  本書では、主に十九世紀から二十世紀における英国の”ロウアー・ミドル・クラス”と呼ばれる人々の社会的、文化的な表れが戯曲や小説などを通して分析されている。”ロウアー・ミドル・クラス”とは読んで字のごとく”中の下”の階級のことで、彼らこそ、我々が英国と聞いて思い浮かべるような<英国紳士>を目指して努力を重ねる悲喜劇的階級の人々なのだ。  彼らは十九世紀に近代化の過程で都市のホワイトカラーとして大きく数を増やした。その結果、上流階級や、彼らより一段上の”アッパー・ミドル・クラス”の嘲り、揶揄の対象とされるようになった。本書において、彼らに向けられた揶揄は驚くほど広い視点から分析される。例えば第一章では、戯曲における彼らへのバッシングが、ミドル・クラスの階級の中で彼らと自らを区別したい”アッパー・ミドル・クラス”が、劇場の観客として、大きな地位を占めるようになったことと結び付けられる。ここでの分析は、作品の中にあらわれる”ロウアー・ミドル・クラス”への嘲りだけでなく、資料に基づいた劇場という場の分析が基礎をなしている。このような作品の内外をも捉える広い視点に基づく分析が本書を特徴づけ、読者にとっての本書を先が予想できない、面白いものにしている。  本書では続いて”ロウアー・ミドル・クラス”を取り巻く「リスペクタビリティ」や「サバービア」といった語が俎上にのせられる。前者「リスペクタビリティ」という語は、礼儀正しさや清潔さをはじめとしたミドル・クラスの美徳を総称したもので、元来ミドル・クラス特有の物であったが、禁欲的なヴィクトリア女王の即位によって上流階級にも受け入れられた。しかし、時がたつにつれて反動がおこるようになり、「リスペクタビリティ」はミドル・クラス的なもの、反芸術的なものとして耽美主義の立場などから批判されるようになった。本書の著者はここで耽美主義の運動に対する興味深い解釈を提示する。経済的、文化的に力を増すミドル・クラスに対し、彼らが理

『性のアナーキー』

「世紀末」―全てが闇に包まれて、終焉を迎える、そのような「終わり」のイメージがこの言葉にはつきまとう。実際は単なる世紀の変わり目に過ぎないのだが。しかし笑って見過ごせるものではない。実際に世紀末には様々な問題や分断が生じて、次の新たな世紀を迎える恐怖や不安を掻き立ててきた。例えば 20 世紀の終わりには、テロの危機、地球温暖化、経済システムの危機など様々な問題が顕在化していた。かのノストラダムスの「 1999 年に世界は滅びる」という大予言がにわかに信じがたい予言であるにも関わらず、あそこまで多くの人に信じられていたのも、事実世紀末に多くの人が世界の危機を感じていたからだろう。 そして、それは 20 世紀に限らない。実は 19 世紀末も同様に様々な危機が生じていた。そしてそれは特に生に関する対立や分断、つまり性に関する境界をめぐる闘争として生じていた。例えば男対女、ホモセクシャル対ヘテロセクシャル、梅毒患者対非感染者など、様々な人々が様々な闘争を繰り広げてきた。同時に、その境界はゆらぎ、時には異なる闘争が密接なかかわりを持つこともあった。そして 20 世紀も先程挙げた問題構造は、フェミニズム・セクシャルマイノリティー・ HIV など形を変えながらも残っている。 本書は世紀末におけるこのように複雑に入り組んだせいに関する境界戦を可視化していく。そのために本書が取り上げるのは英米の文学、芸術、演劇である。これらの作品のなかで性の危機や黙示録に関するイメージがどのように表象されているかを見ていくことで、当時の性に関する人々や社会の見解を明らかにする、そうした表象文化的研究が行われていく。 本書のなかでは様々な芸術作品が扱われるが、そこから当時の性に関するイメージを掬い上げ、当時人々の間にあった境界を再現するとともに、 19 世紀と 20 世紀の世紀末がいかに対応しているかを筆者は示す。そのイメージの理解は鮮やかであり、目を見張るものがある。 例えば 8 章と 9 章ではサロメの女という 19 世紀の英米文学、および絵画・演劇で人気を博したテーマが取り上げられる。このサロメは元々聖書に描かれた女性なのであるが、 19 世紀になると、モローの≪ヘロデ王の前で踊るサロメ≫を初めとして、ヴェールをかぶって優雅かつ力強く舞い、男を惑わせ

『現代美術史』

「現代アート」と聞くと、どうも尻込みしてしまう。 例えばどこにでもありそうな男性便器―有名なマルセル・デュシャンの作品≪泉≫のことであるが―を見せられて「これはアートである」と言われても、正直私には理解できない。あるいは渋谷駅を降りれば目に入る、壁に描かれた巨大な絵画—渋谷駅にある岡本太郎作≪明日の神話≫のことであるが―はなにか意味ありげな雰囲気があるが、正直理解に困る。これは「アート」なのか、それとももっと別の何かなのか―現代アートと言われる作品を見るたびに心に疑問が残り続ける。しかし、それこそまさに現代アートの狙うところであり、かつそうした疑問を投げかけるからこそ現代アートなのだということを、本書を読んで私なりに理解した。 本書は芸術という概念そのものの多様化に加えて、メディアの発達によってそのジャンルが多様化し、多元化し、明確な定義を下すことが難しい「現代美術」 (modern art) を「社会と美術」という視点から描き出そうとする。但し本書において「社会」と「美術」は二元的に理解されるものではない。むしろ、芸術と社会は常にその境界を曖昧にしながら、相互に作用しながら発展していくという視点で「現代美術」は描かれていく。 本書を貫くもう一つの視点として「トランスナショナリズム」、つまり国家間での越境性があげられている。我々が美術・芸術を想像する際、往々にして西洋絵画を思い浮かべるし、アカデミックな領域でも西洋は中心的であった。しかし、現代美術においては国家を越境しながら様々な作品が作られていることを本章は描き出す。そこから、西洋中心の美術観を批判するだけでなく、国民国家と絵画の関係について問い直す面も有している。 このような点から、本書はポスト・モダニズム的視点が強い。つまり、近代システムによって構築され、またそれを再構築してしまっていたアートというシステムの自律性を現代アートが問い、社会とアートの関係性を再構築していこうというする様子が、現代アートの歴史を見る中で描かれていく。そして同時に、現代アートは個人に埋没しがちな現代社会において、個人と社会がアートを通じてつながる可能性を見せてくれる。その点を考えれば、本書を通じて描かれる現代アートはモダンを批判するとともに、ポスト・モダンでの社会と個人がどうかかわっていけるか、その可能性を提